地底海に眠る

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親子関係の問題について

親子関係に悩む人たちの話を見聞きしたり、また自分自身の親子関係を振り返ってみても、親子関係が上手くいかない原因の一つには、親側の愛情の「受け取り方」の問題があるなと感じます。

産まれたばかりの子供は一人では生きていけず、生きのびる為には親から愛情をうけて世話をしてもらわなければなりません。それも昼夜問わず2~3時間おきに授乳したり、ほんの少しでも目を離したら死んでしまうような赤ちゃんをかたときも休むことなく世話をし続けるという非常に過酷なものです。

それをただ「愛」という命綱一本で、赤ちゃんは文字通り親に命を預けて生きているわけです。

なので生まれた時人間は誰でも愛をもって生まれてくるんですよね。それだけが子供の生き延びる術なんです。

よく「子供を愛さない親はいない」なんていう人がいますが、それは全く逆です。

「親を愛さない子供はいない」のです。命がけで親へ愛情を向けるのです。

しかし養育者がコロコロ変わる、幼いうちの親との離別、虐待やネグレクトなどを受けて育つと、子供は愛着障害という後天的な発達障害を負うことになります。

愛着とはまだ言語習得も出来ず、自分の意志を言葉で伝えることが出来ない状態の幼い子供が、養育者によって泣いたらミルクやおむつの世話、ケガや病気をしていないかとみてくれたり、抱き上げてあやしてくれたり、寝かせつけしてくれたり、また子供が例えば猫に気付いて声を発し指さしたときに「猫ちゃんだよ。にゃんにゃん」などと察して言葉を教えてくれたりというような、日々関わりあっている養育者でなければ分からない、赤ちゃんと養育者との間にだけ通じる唯一無二の意思の疎通と信頼関係=絆が築かれることを指します。

これは「母親だから」とか「父親だから」といった続柄で容易に築くことが出来るものではありません。立場や属性、続柄ではなく、日々赤ちゃんの世話をし、心を通わせて、非言語による他者からは分からないような相互理解のコミュニケーション手段を得たりして、コツコツと信頼関係を作り上げることでしか形成されない絆なのです。世話をしなければ育たないものです。

これによって子供と養育者の間には愛着が形成され、その結果子供は養育者とそうではない他人の区別をつけるようになり、人見知りが始まります。

親との愛着関係が出来ていない状態(ネグレクト)で、小さい頃から色々な大人(祖父母や園の保育士さん、保護施設等)に世話だけしてもらう状態に置かれた子供は、脱抑制型愛着障害となって、公園やおもちゃ売り場などで知らない親子連れの後をずっとついてまわったり、近所の家に突然遊びにいって家で勝手にお菓子を食べたり、夕飯をごちそうになる気満々で居座ったりというような問題行動を起こすようになります。信頼関係を築くことや、自分と他人との関係性を正しく推し量る力が欠落してしまっている状態なんですよね。こういう子供はトー横キッズのようになりやすく、他者との信頼関係が築けないまま群れて、犯罪に加担したり、性被害に遭いやすいなどリスクが非常に高まります。

反応性愛着障害(いわゆる人間不信)の場合は、親含めほぼ誰とも深く関わろうとしませんが、信頼関係が築かれた相手とであれば回避行動が無くなり愛着形成も出来るので、反応性愛着障害は環境が変われば問題は緩和しやすいと言われます。しかし脱抑制型愛着障害は環境が変わっても改善し難いのだそう。

親との愛着形成は子供が大きくなってからの社会との関わり方に非常に大きな影響を及ぼすことになります。

愛を素直に受け取れない親

私の母親もそうだったのですが、例えば私が子供の頃、母の日に母親に薔薇のポプリの入ったガラスの器のインテリアをプレゼントを渡しても、母は眉をしかめて「こんなもの」と嫌悪感を示し、それは棚に埃まみれで放置されたままでした(母は薔薇の花が好きだった)。母が車上荒らしに遭い、財布の入ったバッグを盗まれて、車の窓の修理など色々大変な状態の時にお金を渡したり、ガンになった母を毎日のように仕事帰りに一時間近くかけて病院に通って世話をしたりもしました。

けれど母親からは感謝の言葉も勿論無く、出てくるのは文句や不満や言いがかりばかりでした。母の日はカーネーションに決まってるとか、母が入院している時にお月見の日に母が庭で育てていた生け花用のススキを少し持って行ったのですが、話も聞かず見舞いにススキなんか持ってくるなと怒り狂ってゴミ箱に捨てたりとか、女は学歴より家事労働をするものだとか、「常識はこう」「~~すべき」という思い込みが、私に対してだけ異常に強かった人でした。

先日書いたオードリー・ヘプバーンも、再会した父親は娘に全く心を開かず、オードリーは父の頑なさに寂しさを感じながらも、父に生活費を送り続ける選択をします。勿論お金や物で愛が買えるわけではないけれど、それでも自分が親に愛を示し続けるひとつの手段として。

親に愛情を示しても、問題を抱えた親はその愛を素直に受け取ることができません。親子の愛着関係の問題は親側が適切な愛情のキャッチボールが出来ないから起きるのだと思います。

なぜ素直に子供からの愛情を受け取れないのかというと、それは「罪悪感」があるからでしょう。

暴力や嗜虐的な虐め、支配や搾取、見捨てるなど、虐待親はそれなりのことをし続けているわけで、当然ながら親子の関係性は最悪だし、信頼関係も無い。

歩み寄りとは自分の悪いところを認めて相手に謝罪することから始まりますが、彼らは自分の悪行を反省することが出来ません。自尊心が傷つくので。

自分の落ち度を認めて反省することが出来ず、やったことから目をそらし、意固地になり続けて素直に愛を受け取ることが出来ない。

フロイト心理学には防衛機制という考え方があります。そのうちの最も原始的な防衛機制の心理に「投影」というのがあるんですね。

自分の問題や感情を相手に投影することで、本来自分自身の問題であるはずのことを相手のせいだと誤認してしまう状態なのですが、問題のある親はこの投影がよく見られるように思います。親側の問題行動が原因であるのに子供に対して「お前が悪い」とか「お前とは話にならない」と言った相手を責め立てる言動をしたり、また自分が子供に対して敵対行動をとっているのに「子供が生意気だ」とか「子供になめられている」などと被害者意識を持ったり。

私の母親の場合は、そもそも私の父と関係性が上手くいかず、父によく似た私に対して憎悪を転嫁(攻撃転嫁行動)しているところから虐待が始まっているのですが(働きながら手のかかる兄の面倒を見ていて、第二子の私は乳児期から放置されていた。完全なるワンオペ育児で家庭を顧みない夫に憎悪があったのだと思う)、それを正当化する為に、問題は虐待を受けている子供側にあると問題を投影しているんですよね。目つきや態度が可愛げが無いとか、子供が愛情を示そうとしても素直に受け取らず、子供が(虐待を受けたくないから)媚びてきているのだと怒りを覚えたり、常識が無いことをするから怒って当たり前で、自分を怒らせる子供が悪いといった感じで。

愛着障害というと、世間的には愛情を持たない子供というイメージが強いのですが、実際には親から愛情のやりとりをしてもらえなかったというだけで、愛着障害があったのではないかと言われるオードリー・ヘプバーン夏目漱石などは非常に愛情深い優しい人で人から慕われる人だったと思いますし、決して愛情を持っていないわけではないと思います。

愛着障害は愛情が無いとか、虐待育ちは虐待親になるとか、そういう偏見や差別をもって愛着障害をモンスターみたいに憎悪する人なんかも見られるんですが、親子の愛着形成の問題は親側にあるのであって、子供側を憎悪する思考回路が混沌とし過ぎていて理解不能なんですよね。親に愛されなかった子供は鬼子という非常に前時代的な偏見や差別意識が根底にあるのだろうと思います。

愛は求めるものではなく愛を行うものだが、愛が返ってこない相手に愛を注ぐのはひどく虚しい

SNSの恋愛指南とかで「愛しているなら彼を疑うな」みたいなことを言う人を見かけるんですが、それって全く逆なんですよね。信頼できる人に愛を注ぐべきであって、信頼できないなら付き合わない、もしくは別れた方がいいんです。

「愛してるなら信頼して当たり前」「疑うなんて俺を愛していないのか」ではなく、お互いに信頼に足るだけの行動による証明があり、根拠があるから信頼関係が築かれるのだし、信頼関係が築かれているからこそ安心して愛情のやりとりが成立するんです。

それが出来ないのは信頼を損なう言動があるからだし、信頼に足るだけの行動による証明が出来ていないから、お互いに信頼関係が構築出来ていないからです。

大半の男性は「男は浮気するのが普通」とか「体の浮気なんか排泄行為だから大騒ぎする女が悪い」というような開き直りで自己正当化しているので、女性側が不信感を感じて信頼関係が構築出来ないのは当たり前のことです。

一人対一人の恋愛関係を成立させるためには、双方ともに浮気や不倫が出来ないという「縛り」が設けられます。その「縛り」を守れないのであれば、一人の人とのパートナー関係は構築できません。出来ないのであれば特定のパートナーは作らず、フリーで生きればいいだけの話ですが、そこでなぜか自分はルールを守らないけれど相手のことは束縛する。自分はフリーのままの状態で何の制限も受けないが、相手は自分のパートナーでいるべきという身勝手な思考回路で、言葉でだけは誠実なフリを装い騙して裏では裏切るから、相手から不信感を抱かれて信頼関係が成立しないわけです。

男はこう、女はこう、とジェンダーバイアスで曲論を言う人が沢山いますが、例えば武田信玄は源助と弥七郎という二人の美少年にアプローチをして、源助に不信感を抱かれて完全拒否されているという話があります(戦国武将は仏教の影響で男性同士の恋愛が普通だった)。

男(源助)も、同じ立場に立たされれば女と同じ反応をするのであって、別に男だからとか女だからとか関係ありません。

信頼できる相手とでなければ愛情のやりとりは成立しない。

そして信頼できない相手、愛情の一方通行でかえって来ない相手へ、自分が我慢すればいいとか、愛しているのだから信じるべきなどと心に蓋をし続けると、人は報われない寂しさや虚しさで心を病んでしまいます。

恋愛だけではなく、親子関係でも、ペットとの関係性でも、友人関係でも、全て同じです。

愛情は「相手から愛してもらうこと」を期待するものではなく自分が相手を愛して注ぐものですが、それは双方に信頼関係が構築された上で、お互いに愛をやりとりし合うことで成り立っているのです。

愛は報われる相手に注ぐべきだし、愛を受けるには愛に報いる誠実さが必要なのです。

毒親というのは子供から注がれた愛に酬いる能力が欠如しています。相手との信頼関係が築けない、愛に酬いる能力が欠如した人間は、愛される資格がありません。

問題行動のある人間は自己正当化や問題の否認から、自分の問題を他者へ責任転嫁したり、問題行動そのものを認めようとしない傾向が強いです。意固地になって問題行動を改めようとしないし、話し合いも出来ず、分かり合うことが出来ないので、相手が変わってくれることを期待して一方的に愛情を注ぎ続けることはやめた方がいいと思うのです(でも毒親育ちは親に報われない愛を注ぎ続けてしまうのよね)。

 

虐待母がガンになった時見捨てずに面倒を見たのは、母親を愛していたからというよりは、見捨てられなかったというか、見捨てることで多分自己嫌悪に陥ったり後悔するだろうなという感じがあったからなんですよね。母親がどう思うかというより、自分が自分をどう思うか、自分の自尊心の為に行動したというか。なので「こんなにしてあげてるのに報われない」みたいな自己憐憫には陥らずに済みましたね。しかし愛情行動ではないので、リンパマッサージとかは全くしなかった。愛していないので触りたくなかった。「まあやるだけのことはやった」という自分自身への自負というか。

お陰で母に対して一切の罪悪感を抱くこともなく、すっかり過去のものとして処理出来ている気がします。母が亡くなって以降、母からされた仕打ちを思い出して悲しんだりすることは無いです。(例えば交通事故で怪我を負い後遺症があるとして、事故の衝撃を思い出さなくなったとしても後遺症が消えてなくなったりしないように、私も過去の虐待の記憶をあまり思い出さなくなったとしても、愛着障害が消えてなくなるわけではないのですが。)

人を裏切ったり、痛い目に合わせたり、暴力や虐待を行ったり、見捨てたり、そういう行為って、誰が見ていなくても自分が一番よくわかっているわけじゃないですか、そういうことを他者にしてしまったときに素直に反省して謝罪し悔い改めることが出来ればいいんですが、そこで自己正当化や自己憐憫や責任転嫁してしまうと、人間って無意識での罪悪感にずっと苛まれ続ける状態になるんじゃないかと思うんです。それが自己肯定感を大きく押し下げるし、人間がひねくれて腐る。

どんなに自己正当化しても、どんなに責任転嫁しても、本当は心の奥底で自分が悪いって気付いているんじゃない?って思うんですよね。

毒親とかパートナーを裏切る人間って何かそういう惨めさというか後ろ暗さに終始苛まれ続けてピリピリしているような感じがする。

客観的に見たとき自分自身をどう思うか、自分を肯定できるか、自分に誇りをもてるかって、生きる上でものすごく大切なことで、そこを踏み外すと生きるのがものすごくキツくなる気がします。