最近SNSに食傷気味で。とにかく他者の思考に対して辟易しているというか、色々なことが面倒くさくなってしまいまして。一度、人間とは、社会とは、知性とは何か、みたいなことを自分的に把握して言語化しておきたいなと思います。
PR
PR
参考として色々脳や心理学などの本をいくつか読んだのですが、非常に面白くて参考になったので、興味がある方は是非読んでいただきたいなと思います(特に「無知の科学」はめちゃくちゃ面白かった)。
人間は社会性があるから生き延びてきた
ホモサピエンスが誕生したのはおおよそ20万年くらい前と言われていますが、その頃から既に人間はチームを組んで高度な連携を行い狩りをしていたと言われています。
そしてホモサピエンスの脳はその当時から現代に至るまで、脳の容量は変わっていないのだそう。
ちなみにネアンデルタール人はホモサピエンスよりも脳容量が大きい者までいたけれど、発達しているのは主に視覚に関わる後頭葉の部分で、ホモサピエンスは知性を司る前頭葉が発達している。
脳の大きさは構築する社会集団の規模の大きさと比例していて、ホモサピエンスは狩猟時代から現代に至るまで150人くらいが社会構成の一つの単位と言われています。
多くの人は人間は原始時代と現代とで全く異なる状態で、原始人が少しずつ進化してきて今に至ると思っているんじゃないかと思うんですが、(まあ見た目とかは変わっていると思うけど)脳の容量自体は殆ど変わっていないらしいんですね。
現代社会において私たちは、水洗トイレ、上下水道、エアコン、PC、スマホ、自転車や自動車などなど、様々な文明の利器を使いこなし、原始時代とはくらべものにならないほど快適で便利な生活を送っています。
しかし、ではいきなり一人で無人島に送り込まれて今と同じような生活を再現できるかと言われたら絶対に無理ですよね。おそらく石器時代の原始人のように、殆ど裸で過ごし、石や骨で武器を作るのがやっとではないでしょうか。
人間個人が出来ることには限りがあり、一人の人間は殆ど無力と言っても過言ではありません。
人間ははるか古代から群れとして協力し合い分業することで、現代のような文明を築くまでに至ったのです。
積み重ねられてきた集合知
アイシュタインは「自分以前の偉大な科学者の知見なしには相対性理論を考案することは不可能だった」と言っています。
コペルニクスの研究には古代ギリシャ人が構築した観察手法や技術的枠組みが不可欠でした。
偉人伝のような物語によって歴史の偉人を学ぶとき、事実は単純化されてまるで一人の超絶的な天才が驚くようなイノベーションを起こしたかのように思ってしまいがちです。しかし実際はその物事について何千、何万という人たちが長い年月をかけて少しずつ積み上げてきた知識があって初めてイノベーションが起こるのです。
あらゆるテクノロジーや文化がそうやって沢山の人の知性を集め影響し合って、古代から現代に至るまで積み重ねられてきました。
例えば昆虫採集を趣味にしている男性が一生をかけて周辺の昆虫を少しずつ採集して標本にしていき、やがて亡くなったとします。一個人の研究はそれほど注目されるような目覚ましい発見は無かったかもしれません。しかし死後にその標本や資料が研究者や博物館の元に寄贈されて集まると、やがてそれは膨大なデータとなり、貴重な資料となる。
頭の良い人たちって自分の知識を惜しみなく社会に発信するんですよね。自分の知っている情報を開示し、別の人から受け取り、情報を考察し、自分の考えを発信する。
人類が社会的分業によって生き延びてきた生き物である以上、このような知性の相互発信は一つの種族維持本能なんじゃないかと思います。
一人ひとりの力は微力で時間も有限ですが、それぞれが自分の得意分野や興味ある事に専念し、数が集まると社会全体で大きなイノベーションが起こる。
科学だけでなく音楽や美術なども、先人の影響を受け模倣し少し工夫を加えて新しいものが出来ていき、そうやって影響し合いながら少しずつ変化して進化していく。
人間は社会の中で役割分担する
人間て万能で何でも出来る完璧な人っていなくて、苦手なこと出来ないことも多いけど、これだけは得意というものがあったりしますよね。
IQ分布図などを見ても、人はある種の法則性をもってバランスをとって生まれるように出来ているのが分かります。
何故なのかなと思っていたんですが、この社会的分業という視点で見ると理由が分かる気がします。
例えば全てのステータスが同じものが二つあったとして、どちらがより目的に適しているかを選ぶことは難しいですよね。敢えて得意不得意が偏っていた方が、本人が自然に苦手なものを避けて得意なことを担うようになっていくので、おのずと社会的分業が行われやすくなる。
知性がある者は知的探求を、絵が好きな人は絵を描き、料理が好きな人は料理を研究し、身体を動かすのが得意な人は肉体労働を担い、音楽が好きなら音楽を奏でる。
最近は猫も杓子も大学に進学し、皆そろってホワイトカラーにつきたがるので、職業の偏りが著しく、肉体労働を担う人がおらずに外国人労働者に頼るしかない状況が起きていますが、IQ分布図を見ても分かる通り、知的労働に適した脳の持ち主は(IQ110以上と定義して)おおよそ20%くらいのものです。それ以外の大半の人たちはそもそも知的労働に適していない。
人間社会が役割分担で発展してきたことを考えれば、知的労働はその役割のうちのほんの一角に過ぎません。他にも重要不可欠な労働は沢山ある。
例えば狩猟時代で考えてみれば、計画を立てたり指示したりする人はほんの数人で良く、その他に武器を作ったり、狩りの実行部隊がいたり、獲物を捌いたり、料理や育児をしたりといった重要で欠かせない役割分担沢山あったはず。
今も昔も職業に貴賤は無く、全てのプロジェクトは沢山の人たちが協力することでしか成し遂げることは出来ません。
知的作業に向いている脳と向いていない脳の違い
「知っているつもり無知の科学」の中で分かりやすい例題が多く取り上げられていたのですが、例えばIQを図る為のいくつかの作業やテストなどで何か一つでもスコアが高い人はその他の作業やテストでもスコアが高い傾向があり、1つの作業やテストのスコアが低い人はその他の作業やテストでもスコアが低くなる傾向があると。
IQだけが知能の全てでは全くないのですが、IQは前頭葉などの大脳皮質が11歳くらいで急速に厚くなることが分かっているようです(その後はまた薄くなるという話も?)。
とりあえずIQに関しては遺伝的な要素が80%くらいあり、それは脳という臓器のスペックに依存すると思って間違いないようです。
IQテストの他に「認知的熟慮性テスト」というものがあります。
1.バット一本とボール一個の値段は合計1ドル10セントである。バットはボールより1ドル高い。ボール一個はいくらか。
2.5つの製品をつくるのに5台の機械で5分かかる時、100の製品を100台の機械で作るのに何分かかるか。
3.池の一部を睡蓮が占めている。睡蓮が占める面積は毎日大きさが倍になる。睡蓮が池全体を覆うのに48日かかるとしたら、池の半分を覆うのに何日かかるか。
どれも考えさえすれば非常に簡単な問題で、答えを導きだすのに必要な学力も小学生レベルがあれば十分ですが、アメリカ国民の正答率は20%にも満たないとか。
「考えることさえもせずに思いつきを口にする」人が非常に多いのだそう。
この熟慮性スコアが高い人は、日常生活の中でも例えば商品を選ぶ際にスペックや機能の説明をしっかり把握してから選択するが、熟慮性スコアが低い人は、CMタレントやキャッチコピー、見た目やブランドなど表面上の印象で選択し、詳しい説明を聞くのを嫌がるなど、明らかに日常の行動に差異が生じる。
最近AIが身近になったことでも、熟慮性スコアの高い人と低い人の明確な差が出ていると思います。スコアの高い人はAIをツールの一つとして利用しますが、スコアの低い人は「考えることそのもの」をAIに依存しようとするんですよね。
戦前と戦後で日本の高等教育の在り方が大きく変わったという指摘がされていまして、現在の日本の教育の在り方は「教科書に書いてあることを暗記して、正確にテストに回答する」ことが目的になってしまっています。昔はそうでは無かったけれど、高度経済成長とともに大企業が「そういう人材」を求めたことで変わってしまったのだそう。しかしテストの成績が良い人が社会に出て活躍するかというとそうではないということが指摘されていて、これはあまり良い人材教育にはなっていないということは多くの人たちが気付き始めているんですよね。
最近の一流大学のテストでは「文章を読んで、限られた文字数の中で的確な本質を要約する」というような設問が増えてきている模様です。
がり勉学歴主義を頭がいいと誤認する社会的な認知の歪みが、本来は知的作業が得意ではない脳を知的作業が必要な職に割り振るというミスマッチを産んでしまっているんですよね。それによって様々なところで停滞や混乱が生じている。
人間の脳は精密な記憶力を必要としていない
テストで高得点を取ることは、興味が持てない退屈な知識をより正確に記憶しておき、いつでも出し入れできるPCのハードディスクみたいなものです。
ASDのサヴァン症候群や超記憶症候群といったいわゆるギフテッドと言われるような人たちがいます。
彼らは一度見ただけの景色を細部まで詳細に記憶し絵に描くことが出来たり、一度聞いた音楽をピアノで再現することが出来たり、何十年という過去に遡り何年の何月何日は何曜日かという質問にすぐに回答することが出来たりします。
多くの人がそれをものすごい天才だと思い、羨ましいと思うかもしれません。
しかし実際そういった超記憶症候群と認定された人たちの大半が鬱症状を示しており、日常生活に支障が出るなどの苦しみを感じているそうです。
覚えておく必要性が無い情報が常に頭の中に存在し続けることのストレス。そして、例えばしょっちゅう登場するふさふさの四つ足の生き物が「犬」という属性であることが認識できなかったりするそうで。
普通の人の記憶力をハードディスクで例えるとその記憶容量はわずか1GB程度だという報告がありますが、人は視覚や聴覚、感覚などによって得た情報を元に世界モデルを構築・把握し、その中で重要だと思った情報だけを抽出して記憶し、不要な記憶はどんどん削除して整理しているのだそう。
何故なら人間は起きたことを全て記憶することを目的としてはおらず、得た知識や経験から、不確実に満ちた未来に対処することを目的としているからなんですね。
以前にも経験則について言及したことがあったと思うのですが、得た知識や経験という具体的な出来事から本質的なものごとの抽象化を行うことで有用な情報をストックしていき、自分の身に降りかかる出来事に対処するという、問題解決能力を左右することにつながるわけです。
大脳皮質とニューロンネットワーク
人間は脳が大きく発達した為に脳が産道を通れる頭ギリギリの大きさで、他の哺乳類などに比べると未熟な状態で生まれてきます。
https://kololoryukyu.com/brain.html
その為に産まれたばかりの赤ちゃんは大脳新皮質のニューロン形成がまだ真っ白な状態らしい。最低限生命維持活動に必要な脳幹(下位脳)が動いているだけで、母乳に吸い付いたり、手のひらに何かが触れると握りこんだりといった原始反射があるのみ。
成長と共に大脳新皮質と古い脳が結び付いていき(コラム)、例えば頭で息を止めようと考えることで古い脳に指令を出して息を止めることが出来るようになる(酸素が足りなくなり体に害が及ぶと判断すれば意志に関係なく古い脳は呼吸を再開する)。
この大脳新皮質の発達が遅れたり、上手く形成されなかったりすることで、下位脳レベルの常同行動や反射的行動が出てきてしまう状態が発達障害の一つなのだそう。
古い脳・下位脳と、新しい脳・上位脳の行動の組み換えが上手くいかなかったということなんですね。
ニューロンとシナプスには「可塑性」と呼ばれる柔軟性がある為、何度も繰り返し訓練することで大脳新皮質に必要なネットワークを形成させることが可能で、それが療育と呼ばれているのだそう。
人間の脳がどのような仕組みで動いていて、どのように情報を把握し世界モデルを構築しているのかは殆ど分かっていないのですが、一応ニューロンに情報が蓄えられ、シナプスのつながりによってネットワークが構築されていると考えられていますよね。
それで私思ったんですよね。IQや熟慮性などは多分生まれ持った遺伝子的特徴だと思うのだけど、大脳新皮質に構築されるニューロンネットワークは環境やその人の身に偶発的に起きたことや経験が非常に大きいのではないかなと。
何故陰謀論や極端な差別意識などが蔓延るのか
現代社会で生きる私たちは、地球は丸いとか、地球は太陽の周りをまわっているとか、ブラックホールなんてものがあるらしいとか、宇宙は無限だとか、そういうことを「科学的事実」として信じています。
しかしそれは実際に目で見て確かめることも出来なければ、体験することも出来ません。宇宙飛行士やNASAや物理学者などが提供する写真や情報を見て「そうなんだ」と信じるだけです。
世の中にこうした「実際には確かめることは出来ないけれど、そうである」と考えられている「社会が共有する認識」はありとあらゆるところにあります。
一昔前であれば、妖怪や鬼や妖精や神といったものが、まことしやかに信じられていました。
私はスラブ地方のバンパイア伝説や狼伝説などがとても好きなのですが、1990年に行われたN.Yのグリスウォールド墓地の発掘で、棺桶の中から心臓が抜き取られ、頭骨と大腿骨を組み合わせてクロスさせた遺体が発見されているのだそう。
これは19世紀半ばの人々の間で結核をヴァンパイアだと思い込む偏見や迷信があり、二度と蘇らないようにというまじないの為に行われたもので、海賊旗のマークもそれが由来なのだとか(俺たちに近づくものには死あるのみ)。
世の中には「それはいったい何を根拠に言っているのだろう?」と不思議に思うようなことを根拠無く自信満々に断言する人が一定数存在します。
自分の体験でもなければ、統計や調査などで証明されているわけでもないようなことを、主語デカで、恰も確定された不動の真実であるかのように断言する。
「女は本能で優れた男の遺伝子を欲しているのだ!」とか。そんなこと言ってる女性を私は見たことありません。断言しているのは女になったことのない男だけ。
科学的事実を言うと、女性が持っている本能は「遺伝子が近い相手を臭いと感じて避ける」ということだけです。種族維持本能は未来の不確実性に対応する為に遺伝子の多様性を担保したいのです。「優れた遺伝子」などという考えは、物質的価値観にとらわれた男の妄想に過ぎません。「優れた遺伝子」などないのです。
未来の不確実性というのは、何かの病気が蔓延したり、食糧難や食べ物に毒性があったり、気候変動が起きたりといった様々な環境要因のことであり、何かしら災害が起きたときに一網打尽になって全滅しないように遺伝子が多様であればあるほど保険になるということ。ちなみにコロナは欧米と日本とで被害に大きく差があり「ファクターX」などといってその原因を突き止めようとする動きが見られました。今では白人側にコロナへの脆弱性を示す遺伝子が見つかっているとのこと。
また、遺伝子が偏るとハプスブルク家のように遺伝病が起きて多産を上回る多死によりその集団は絶滅します。
そういう変な思い込みを持っている人というのが世の中には非常に多い。「不倫は本能だ厨」とかも。
人間は社会的な生き物であり、他害行為や自己中な言動は、信頼関係を構築出来ない為にコミュニティから追放されたり、孤立に陥ったりする危険があります。20万年前の原始人でさえも、150人程度のコミュニティを築き高度な連携による狩りを行っていました。その中に人を裏切ったり他害行為をする人間は当然ながら存在したとは思いますが、原始時代においてそれはそのまま死に直結するような大きなリスクだったと思われます。
そのような生存や種族維持に反する衝動は「本能」とは言えませんし、実際に研究ではパートナーを裏切ったり暴力をふるう人間の大半が若い頃からの過度の飲酒や喫煙などで、ドーパミン報酬系と前頭葉のつながりが弱くなり、本来生きていく上で重要なことがまともに判断・制御できなくなる一種の脳の病気の状態に陥っていることが明らかになっています。
制御できない強い衝動=本能、という短絡的な結びつきがあるのでしょうが、それは本能では無く脳の病気なのです。
私たちは自分の目で見て確認したり、体験したり出来ないことでも、学習しそれが本当なのだと思い込むように出来ています。しかし知的能力が高い人は、有益な情報とゴミや雑音の選別に長けていますが、そうでない人も実際非常に多い。
社会的分業を考えた時、本当に知的作業に適した脳みそが知的作業を担うことが実現可能であれば、知的作業に適していない人たちは、考えることを他者にお任せして余計な口は挟まないというのは理にかなった姿勢であるとは思います。
本当に優れたリーダーはIQとEQが両方伴い、社会的倫理観があり、善意で動くと言われていますから、プロジェクトの仲間たちはお互いに信頼してそれぞれの担当する分野を頑張ればいい。
また優れたリーダーは自分は偉大であると傲慢にならず謙虚で、多くの専門家のそれぞれ必要な意見に対して真摯に耳を傾けるとも言われています。
知的作業が得意な人は、情報の取捨選択(それは脳で言えばニューロンとシナプスのネットワークの構築であり、シナプスは必要な繋がりを密に強くする一方、不要な繋がりは弱くなる)や、柔軟性(脳神経の可塑性)があり、情報収集に積極的で、熟慮して結論を出します。そういう人は極論に偏らず意見が穏やかな傾向が強い。
知的作業が苦手な人は、説明を受けるのを嫌がり、良く考えずに思いつきをそのまま口に出し、根拠のないことを確固たる不動の事実であるかのように盲信し、過激で暴力的な攻撃性を示します。
なんにせよ人間には思考の枠組み(スキーマ)があり、それが言動のバックグランドでいつも稼働していると言われています。
そのスキーマがどうやって形成されるかというと、国や文化、言語、環境、周りの人たちからの影響を受けて形成される。それは多分ニューロンネットワークそのものなのでしょう。
生まれた時は真っ白の状態であり、どんどん情報を吸収してスキーマが構築されていく。遺伝的傾向も左右しますが、殆どが後天的に環境から得た情報で作られていくのだろうと思います。だからIQ(ハード)は変えることは難しいけれど、EQ(ソフト)は育てることが出来ると言われるんですね。
キレやすく暴力的な子供は、親から躾と称して暴力を振るわれて育っていることが多いのだそうです。暴力や怒声などの無い環境で育てられると子供は穏やかに育ちます(これは犬や猫も同様です)。
最近「さす九」などと言って九州地方の男尊女卑がSNSで話題になっていました。そのような地域や集団の中で蔓延る共通意識なども「スキーマ」の一つです。
知的作業が得意な人はあまり他者と積極的に関わろうとせず、一人の時間に熟考することを好みます。そして本を読んだり同じ知的作業が得意な人の意見を参考にしたりする。
知的作業が苦手な人は、他者の群れに紛れることで生存確率を高めようとします。難しいことは理解出来なくてもそのコミュニティに所属していることで、誰かがいつのまにか問題に対処してくれる。考えることは苦手なので、経済的成功者や権力者、或いは宗教の教祖などの言うことに盲目的に付和雷同する。
人間社会が大きな集まりの中で分担作業でここまでテクノロジーを積み上げてきたことは間違いない事実であり、人に優劣は無いし、職業に貴賤は無いと思います。
ただ、体力がない人に肉体労働が難しいように、知的作業にも向き不向きは確実にあるんですよね。
基本的には社会的倫理や法の下で、大きく逸脱したり他害行為をせずに、自分に適した役割分担を担って幸福に生きられたらそれで良いじゃないかと思うのです。ただ、知的作業に向いていない人が、自分は頭がいいと誇大妄想を持ち(ダニング・クルーガー効果という)、クソの役にも立たないどころか害悪でしかない情報発信しすぎじゃね?って思ってしまうw。
ネットが発展したことで、専門家が情報を惜しみなく公開し、私たちはそれにいつでもアクセスすることが出来る。AIが身近になったことで、海外の外国語で書かれた情報までも検索してもらうことが可能になりました(マジでありがたい)。
一方でほんまにどーしょもないバカの集まりも可視化されてマジで鬱ですw
特に本来知的作業が得意な人たちで構成されるべき政治家や官僚が、ほんと頭悪すぎじゃない?って人間で埋め尽くされていることにほとほと嫌気がさしてしまったw
もうこれ詰んでるやんと思いまして。
これね「がり勉丸暗記」を「頭がいい」と誤認し続ける以上、解消することは非常に困難ですね。
とはいえ少しずつ、ほんとうの知性とは何かということもアップデートされつつあるなとは思うので、世の中が良い方向に向かうことを願うばかりです。