地底海に眠る

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「自分の課題」「他人の課題」(課題の分離)

アドラー心理学では「自分の課題」と「他人の課題」を分けて考えることを勧めています。この考え方は人間関係での困難を乗り切るためにとても重要なスキルです。多くの人間関係のトラブルはこの「自分の課題」と「他人の課題」の振り分けが出来ていないことが原因といっても過言ではないかもしれません。

課題の分離とは

例えばアルコール依存症の夫に悩んでいる妻が、夫の為だと信じてあれこれとしりぬぐいをする。勉強をしようとしない子供に、子供の為だからと思い込んであの手この手で無理やり勉強をさせようとする。自身の問題行動からもめごとを起こす人を可哀そうだからとあれこれ世話を焼く。ネットニュースで見かけたよく知らない誰かの言動を許せないからと誹謗中傷し続ける。

そういった行動は全て「他人の課題」に対して過度に踏み込んで関係性を逸脱している状態です。

しかし「自分自身の課題」ではないので、脅そうが愚痴を言おうが詰ろうが侮辱しようが、本人が変わらない限り他人にはどうしようもない。相手に対する「不満」は解消することが出来ません。他人は変えられないのです。

このような他人の課題に過干渉して人間関係に困難が生じている状態を「共依存」といいます。

もちろん「手助け」や「アドバイス」「導く」ことはできますし、アドラー自身も患者に対してできる限りの手助けをすることは必要であると認めています。自分が出来る範囲のことは「自分の課題」です。

しかし、アルコール依存症の夫が自分で仕出かした揉め事の後始末を妻が肩代わりすることは、夫が自分自身の問題に向き合うことを妻が奪っていることになります。そのために夫は「自分の課題」に向き合うことが出来ません。

勉強嫌いの子供が無理やり勉強をさせられても、それは親に強要されているだけであって自分の意志ではありませんから、自分自身の課題であるという認識が持てません。子供が学ぶことに興味を示し自分の課題であると理解してもらうことは有用ですが、子供をロボットのように親の思う通りに動かそうと支配することは毒親です。

本人のモラルの欠如や配慮の欠いた逸脱行為で、社会的な制裁を受けたとして、落ち込んでいる人を励ましたりアドバイスすることは友人として適切ですが、逸脱行為や反社会的な言動によって起きた問題を、恰もその人の問題ではないかのように肯定して責任から逃避させることや、代わりにあれこれと世話を焼くことも、本人が自分自身の課題に向き合うことを奪っています。

よく知らない芸能人のスキャンダルなどについて、無関係な人間がまるで自分は被害者であるかのように憎悪を拗らせて「悪」を敗北させようと執拗に侮辱や人格否定をし続けるのも、それは「他人の課題」であって自分がどうにかできる範囲を逸脱しているということに気づいていません。

過干渉の根本原因は「自分の課題」

なぜ自分でできる範囲を逸脱している「他人の課題」についてあれこれと口を出し、人を変えようとするのか。その根本要因は自己顕示欲や承認欲求などの自分自身の精神的な問題です。

アルコール依存症の夫の課題を肩代わりすることで、妻は自分の存在価値や自己有用感を得られます。「この人は私がいなければダメなの」と強く思い込むことで、自分自身の存在意義を強く感じることが出来ます。

子供に勉強を強要したり、パートナーにあれこれと過度に深入りしてコントロールしようとするのも、自己顕示欲や承認欲求によるものです。自分の思う通りの子供やパートナーにしてアクセサリーやトロフィーのように世間に誇示したいという欲望や、自分自身が子供やパートナーに対して強い影響力があることを実感したい支配欲などがあります。

人助けのつもりが他人の課題から当人を逃がそうとしている人も、短絡的に目の前の人間に称賛されたり感謝されたいという自分の虚栄心やヒーロー願望を満たす為に、善悪やモラルを度外しして自分の欲の為に利用します。

常軌を逸したネットバッシングや誹謗中傷も、実は自分が正義のヒーローであるという実感を得たい為にとりあえず騒ぎに便乗して石を投げているだけだったりします。自分の歪んだ攻撃的な承認欲求を暴力で満たしているのです。

「他人の課題」に踏み込みすぎる人の根底には、自分自身のなんらかの欲望を他人の課題にかこつけて満たそうとする心理状態があります。その欲望を満たす為に他人の課題を人から奪って消費しているのです。

他人の課題を奪って自分の欲に消費しようとしている心理状態に気づくことが「自分の課題」です。

人からどう思われるかも「他人の課題」

人にどう思われるか、世間にどう思われるかを過度に気にして、本来の自分ではない言動を演じたり、うそをついたり、印象操作して操ろうとする人がいますが、これも「他人がどう思うかは他人の自由である」という「他人の課題」の分離が出来ていません。

他人に自分を良く思わせたい、好意を持ってもらいたいという強すぎる欲求は「他人の心の自由」への過干渉です。

「自分の課題」は、自分自身がどうありたいか、自分自身が自分の生き方に誇りを持てるかということです。他人にどう思われるかは重要ではありません。

恥の概念や劣等感も成長にはとても大切な感情体験ですが、その基準は「自分の理念」であるべきで「他人からどう見られるか」ではありません。

「馬鹿にされた」「攻撃された」「裏切られた」等、色々と人間関係のトラブルがあるとは思いますが、そのようなときにも考えるべきなのは一連の出来事での「自分の課題」はどれかということであって、あさましい言動をとったのはその人の人格の問題「他人の課題」なので自分の課題から切り離してかまいません。

見た目のコンプレックスを嘲笑されて傷つき整形したりする人がいますが、人間の見た目に対して嘲笑や攻撃的な言動をとるのは、された側の問題ではなく攻撃的な人間の人格の問題ですから、整形するというのは本質的な問題解決の手段とはなりません。他人が整形したところで、その人の人格の問題である他者への攻撃的な問題行動は治らないからです。

まとめ

課題の分離とは、他者の自由を尊重し多様性を受け入れる個人主義の考え方です。他者の人生や心を尊重し他者の領域に土足で踏み込まない。他人の権利を奪わない。成功や喜びだけでなく、人には「失敗する権利」や「苦労する権利」もあります。やってしまったことの後始末をして教訓を学び取る機会もその人の大切な権利です。

他者への共感やアドバイスや指導というのはもちろんとても大切なことですが、自分の浅はかな承認欲求や自己顕示欲で、他人の権利を奪って我欲に消費してはならないのです。