地底海に眠る

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条件付きの愛情

毒親とか虐待などの話が他者から批判されることなく自由に出来るようになったのって実はここ10年くらいじゃないかという気がするんですが実際どうなんでしょう。

それまでの風潮って虐待育ちをカミングアウトしたり、親の問題を公の場で話したりすると「産んでもらったくせに感謝の気持ちが無い」とか「親に歯向かうなんて生意気な子供だ」とか、虐待育ちで親を批判する子供を皆で一斉にフルボッコにするような風潮が強かった気がします。実際数年前は虐待育ちをカミングアウトする本を出版した女性に対してヤフコメ民が一斉に攻撃するコメントを書き込むところを目撃していますし、他方では虐待によって命を落とした子供の事件に同情的な書き込みや虐待親への怒りを書き込むけれど、死ななかった(成長した)虐待育ちは「親に感謝できない恩知らず」或いは「虐待育ちは人格に問題がある」「大人になると虐待親になる」といったレッテル貼りや偏見、差別が依然として感じられます。

 

虐待って命にかかわるような身体的な暴力だけでなく、精神的に追い詰めたり、不適切な教育や支配だったりすることも多いので、暴力や食事を与えないなどの身体的な暴力や拷問で死んだケースだけが虐待で、子供が生き延びたらその親はいい親ってわけではないんですよね。

子供の頃の不適切な養育が子供のこれからの人生に及ぼす悪影響って非常に大きなものだし、親のせいにするなとか自己責任とか安易にいう人いるけれど、お前人追い詰めることしか言えねえんならせめて黙ってろやこの役立たずとしか言いようがありません。

親からの条件付きの愛情の中で育てられた人の歪み

一見して虐待とは思われないようなことの中で最も大きな悪影響があるのって、親から「条件付き」でしか愛されなかった子供じゃないのかなと思います。そしてこの条件付きの愛情の中でしか生きることが出来なかった人って実は結構多いんじゃないかと思うんです。

「手がかからないおとなしい子だから愛する」「成績が良いから愛する」「親の信じる宗教を受け入れて従うから愛する」「いい高校・大学に行き大企業に入社したから愛する」「親の夢を継いで叶えてくれたから愛する」

そうじゃない子供は愛されない。

確かに親は子供を産んで育てる立場であり、遺伝子をある程度共有している存在ではありますが、しかし親と子は別個の人間、別個の人格であり、子供は親のおもちゃでも自分の欲求を満たす為の道具でもありません。

しかし子供は養育者である親に命を握られているので、親から愛されることが生き延びる為の重要な要素です。親に愛されない子供は身体的虐待や育児放棄によって文字通り殺される危険性が高い。

本来親の役割って子供が生きやすく生きられるように、自立できるように「手助け」するものだと思うんですが、「こうあるべき」を押し付ける毒親によって人生乗っ取られてしまって、自分が無い、自分の人生を生きられない人って結構いると思うんですよね。

反抗期もその人によってケースバイケースですが、こういう子供の人生を乗っ取って憚らないような支配的な毒親に対しては、子供が反抗期に逆らうというのが非常に大きな分かれ道となっていて、そこで親の支配から逃れることが出来れば親と疎遠になる代わりに自分の人生を自分で切り開くことが出来るけれど、反抗期が無かった場合大人になってもずっと毒親とべったりしていて親に乗っ取られた人生を歩み続けることになる。

不適切な養育は子供の人間関係にも悪影響を及ぼす

世間を賑わせたガーシー(東谷義和)っているじゃないですか、あの人の母親の話で、とても気になったことが一つあって「息子はおおらかで優しい子で、動画で人を攻撃している姿はいつものあの子ではない。怖くて蓋をしてしまった」というようなことを言っているんですよね。

実際にその人がやっている悪い点や行いについて「これは本当のあの子ではない」「あの子はそんな子じゃない」「あの子は優しい子だ」という言葉って、一見親が子供を信じて愛しているように見えるけど、実際はその子供の本当の姿を直視できず否認して、自分の理想の子供の幻を愛しているだけなんじゃないのって思うんですよ。

人間って完璧な人は存在しないので、誰でもいいところもあれば悪いところもありますよね。でも上辺だけ親の理想の子供を演じて嘘をつくだけで、親が満足してくれて幻の愛情が注がれるとしたら、その子供はどう育つんでしょうか。

表面上、親の望む進路を選択する、親の望む子供の役割を演じる、親が喜ぶウケのいい振る舞いをする、親の信じるものを否定せず受け入れて従う、親がやれといったことをやる。

そうすれば親は満足して子供を愛します…でもその裏ではガーシーのように親の知らない悪い言動があるとしたら?

子供が持つ二面性

教育の話でよく言われるのが「家ではわがままなのに、外ではいい子」という子供は全く問題ないが、「家ではとてもいい子なのに、外で問題を起こす」という子供は非常に危険だというものです。

子供が外でしっかりと社会的な言動が出来るのは、親自身がそういう振る舞いをすることで子供は親の姿を見て学んでいるからなんですよね。一方で外の世界で頑張ってきてストレスも感じるし疲れを感じたりもするからこそ、家では親に甘えてわがままやだらしないところが出てしまう。それはとても健全な当たり前の姿だからなんの問題もないそうです。

しかし、家では親の望む通りのいい子ちゃんなのに、親が見ていないところでの先生や友人との関わりでは、わがままや攻撃性や嘘をつくなど問題行動が目立つという子供がいて、そういう子は親の「条件付きの愛情」しか与えられなかったり、理想の押し付けが酷過ぎたり、親が子供に無関心だったりすることで愛情不足となっていて、親が子供にとっての社会での適切なふるまいの見本になっていなかったりする(子供に対して問題のある親って大体社会的なふるまいも傲慢だったり非常識だったりする)、要は不適切な養育環境や親の問題が背景にあると指摘されます。

条件を満たせば愛される?

人間て自分の問題を自分で見つけられる人って多分あんまりいないと思うので、子供の時とかは親や学校の先生から(或いは大人になっても職場や人間関係から)の問題行動の指摘やフィードバックって結構重要なことだと思うんですが、その伝え方次第で相手に対する働き方って大きく違うと思います。

なかなか難しいものではあるんですが「あなたのこの行動はこんな問題を巻き起こしているよ」と相手に問題行動の自覚を促したり、改善を促したりすることと、「自分はこういう人間が大好きだから、こうなりなさい。こうしなければ嫌いになる。こうしたら愛してやる」という伝え方では、受け取る側の気持ちは天と地ほども異なってしまいますよね。

前者は自分自身の問題として捉えることが出来ますが、後者は相手の愛情を受け取るかもしくは攻撃されるかの二者択一を迫られているのだと捉えられてしまいます。

ていうか、「こういうことをする人間は嫌いだが、自分の理想の振る舞いをするなら愛してやる」なんて言えるほど、愛情って自由自在じゃないと思うんですよね。それって単なるエゴであり、他者を支配して自分に媚びさせて満足するという自己愛を満たしているだけであって、他者への愛情ってそんな風に自由自在に出したりひっこめたり出来るようなものじゃないでしょう。そんな風に条件次第でちらつかせてる時点で偽物でしかないんですよね。

勿論客観的視点からのフィードバックはありがたいもので、例えば優しくないとかドSだとか言われれば、確かに相手を追い詰めすぎてしまったかもしれないなとか、人を傷つけてしまったなと反省する気持ちはありますが、条件付きの愛情の部分についてはぶっちゃけ「愛されなくっても別にEー!」でしかないです。

条件付きの愛情って、自分の思い通りに振る舞うなら愛するよという、こちら側からすると「他人軸」の押し付けであり、自分の思い通りにならないなら愛さないよというのは害を与えることをちらつかせている恫喝でしかないんですよね。どちらにしても別に私にはメリットが無い。関わらない方が面倒くさくなくて自由でいいなとしか思いません。

条件付きの愛情って結局愛情じゃないんですよね。だから条件付きの愛情で育てられた子供は「愛情不足」になると言われる。

そう。相手が突き付けてくる条件を満たしたからといってその結果もらえるものは愛情ではないんです。それは相手がエゴを満たしているだけに過ぎないから。

そして問題点の指摘やフィードバックを行うのは、その問題と愛情は別問題であって、そこがあるから罰して愛さないと言っているわけでもないし、それを治したらコロっと気が変わって溺愛しますよと言っているわけでもないんです。ただ、問題点を指摘してるだけ。

人間てそうそう簡単に変わることは出来ないので、一朝一夕で欠点が簡単に治るわけないですし、急に目に見えて改善できたと判断することも難しい。

相手が完璧だから愛するわけでもないし、欠点があるから愛さないわけでもない。自分の望む通りに振る舞えば嫌いだった相手を愛せるわけでもないし、自分の望む通りに振る舞わないから好きだった人を急に嫌いになるわけでもない。

繰り返しますが、問題行動のフィードバックと愛情は別の話です。問題行動が治れば愛するのにとは言っていませんし、問題行動を改善したからといってそれだけでいきなり愛することは私には出来ません。

条件を突き付けている時点で愛情なんかないくせに、まるであるかのようにちらつかせるなよって思いますし、別にそもそも愛されなくても別に全然困らないです。

愛情と執着の違い

子供が自立して自分の人生を自分の足で歩み、親から離れて一人になっても上手くやれて幸せになって欲しいと望むのは愛情ですが、子供にいつまでも過干渉して親の支配圏から出ることを許さず、子供が親に頼ることでしか子供が幸福になれない状態を望み、親がいなければ上手くいかないに決まっていると呪うのが執着です。

ありのままの相手を傍にいても離れていても信頼して温かい気持ちを感じるのが愛情で、相手が自分の理想通りに振る舞い自分に敬意を払って自分に気を遣わなければ怒りを感じ許せないのが執着です。

ちなみに自分の好みじゃないとか好きじゃないと思えば、興味ないか嫌いになり関わり合おうとしないのが普通の状態であって、誰かを嫌ったり無関心だったりする感情自体は誰でも持つものだと思います。しかし、思い通りにならない相手を思い通りにさせよう、自分の好みじゃない相手を自分の好みに変えようとするのは普通じゃありません。それが執着であって、そんなものは愛情でもなんでもなく嫌悪じゃね?と思うのです。

人間関係って難しいので、ハリネズミのジレンマのようにお互い知り合おうとして近づきすぎると傷つけあってしまったりします。

場合によっては自尊心やプライドを傷つけられたりもすると思いますが、そこで憎しみがわいてきて相手を攻撃したり嫌がらせをしたり、或いは条件をつきつけてこうしなければ愛さないぞと脅したりしてる時点でもうそれは愛でも恋でもなく、嫌悪や憎悪だと思うのです。

人間って地球上に80億人いるので、恋愛にしろ友人関係にしろ、関係性が上手くいかない相手にそこまで執着する意味って無いんですよね。相手に怒りや憎しみを感じて攻撃したり支配したりするくらいなら、もっと自分にピッタリくる相手を他に探したほうが余程いいですよね。

怒りを感じる相手にこだわってしまうのは相手への愛情があるからではなく、自分のメンツを保ちたいからではないのかなと。

相手を愛しているのではなく、自分を愛しているだけなんですよね。