地底海に眠る

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劣等感について

人は優越性を求め権力を得ようとする

これはアドラーの言葉なんですが、アドラーは人間には劣等感や欠落感があって当たり前で、それを補おう高めようとする(優越性を求める)気持ちは、人が成長する上で不可欠なものであると認めています。

こういう健全な劣等感や欠落感というのは自分を客観視する必要性がありますので、実はある程度頭が良くないと持てない感覚でもあったりします。逆に知性や能力や経験などが未熟な人間ほど自分の能力を過大評価する傾向がある=ダニングクルーガー効果というのもあり、知性があり視野が広く世の中を知っている者ほど、自分はまだまだ学びの途中であると謙虚で、知性が低く未熟であるほど幼稚な万能感を抱えて自分はすごいと驕り高ぶるというのは様々なところでよく指摘されるものですよね。

自分はまだまだ未熟で知らないことが沢山あり、今は学びの途中であるという考え方は、新しいことを知る喜びや、成長していく楽しみがあるので、人生が楽しく刺激的になります。

しかしその劣等感にはそういう健全なものと、逆に人生や人間関係においてマイナスの作用をもたらす不健全なものとがあります(アドラーは優越コンプレックスと呼んでいる)。

例えば一昔前に黒縁の大きな伊達メガネをするファッションが流行していましたよね。「これをかけると頭がよく見える」とか言っている人がいましたが、むしろあれかけてる人めっちゃ頭が悪く見えましたw。

お分かりだと思うのですが、頭が悪いというコンプレックスに対して、少しでも学ぼう教養を身に着けようとするのが人を成長させる健全な劣等感の作用であり、伊達メガネで上っ面だけ胡麻化そうとするのが不健全な劣等感の作用なわけです。

例えば「本当に頭がいい人と、そうじゃない人の違い」というような話題でも、頭が良いとみられたい人というのはわざと難しい言葉や専門用語などを連発して自分は頭がいいのだと相手に思わせたがるが、本当に頭がいい人は相手が理解できるように平易な言葉で相手に的確に伝わるように話をすると指摘されます。

小手先の嘘や偽り、こけおどしが目に付く人ほどその裏には実は強い劣等感ゆえの優越コンプレックスが隠れているというわけです。

2:6:2の法則

私は努力とか根性とか大の苦手なので、ぶっちゃけ自分の好きなことしかしません。でも得意なことや好きなことを楽しみながら積み重ねていくことでその分野においてのスキルアップや結果が得られるならそれでいいと思うんです。多様性の世の中なので、凸凹の無い完全な球体を目指す必要は全く無い。これは苦手ですが、これは得意です、というので別にいいと思うんですよね。

ところが本当は本なんか読まないのに、まるで本を沢山読んでいるかのように法螺を吹いたり、本当はあまり賢くないのに小手先の嘘や偽りで知性があるかのように見せかけたりすると、それを見た人は「この人は本を読むのが好きなんだな」とか「この人は知性が高そうだな」という風に判断しますよね。そうすると「本好きとか、難しい話する人は苦手だわ」という人は離れていってしまうし、「知性的な人と会話を楽しみたい」という人はそういう会話を期待して接してくるようになる。でも少し関われば小手先の嘘なんてすぐにばれてしまいます。結果として近寄ってきた人からは「期待外れだな」とか「全然楽しくないな」とがっかりされたり「騙された」と嫌われたりすることになるし、もしかしたら「難しい話は苦手」とはじめの印象で離れていった人の中に、本当に気が合う人がいたかもしれないわけです。

いわゆる2:6:2の法則というやつで、多様性の世の中ですから、どんな人間でも2割には好かれ、6割は無関心、2割には嫌われてしまう。だからこそ劣等感から本当の自分を偽るのではなく、ここは苦手だけどこれは得意だよとか、自分はこういう人間ですよと正直に自己開示して素の部分で気が合う人を探した方がいいんですよね。

また、もしも好きな異性の気を惹きたいなどの理由があるのだとしたら、嘘や偽りで相手を騙すのではなく、本当に本を読んだり、学んだりする努力をするべきだと思います。見せかけの姿と実態があまりにも違いすぎたりすると、不信感や恐怖心で恋愛どころじゃありませんからね。自分の目的の為に相手を騙すというのは人間性を疑われる行為です。

強い劣等感による自己欺瞞

私の人間嫌いに拍車をかけたトラウマ級の女の子がおりまして。

たまたま家が近く、小学校の入学時点で席が前後ろだったというだけの縁で、小中と友人関係だったのですが、ものすごい上から目線で人を見下してくる性格の子だったんですね。いじめっ子とは違うのですが、例えば自分の優れたところと相手(私)の劣ったところを比較して優越感に悦んだり、悩みや愚痴に対して「またぁ?本当にダメだね!」と嘲笑したり「もっと頑張りなよ!辛いのは皆一緒だよ」とか、兎に角関わると鬱にさせられるコミュニケーションしかしてこない人で、こちらも全然楽しくないのですがあちらからはめちゃくちゃグイグイ関わってくる。そしてことあるごとに「〇〇(私の名前)には、私がいないとダメなんだから」と。

実は彼女は非常に他者に対して依存心が強く、その裏返しとして「この子は劣ったダメな子で自分はこの子に必要とされている」という妄想の中で生きている子だったんですよね。

ただでさえ崩壊家庭の虐待育ちでしんどいのに、そんなんに四六時中粘着されてるんだから学校でも超しんどい。ストレスで心身ともにボロボロでした。

高校あたりで縁を切ったんですが(周りの子に私のテストの点数を聞きまわったりとか完全にストーカー化してた)、大人になってから連絡がきたときには震え上がりました。どんだけ私に執着してるのって。

着拒にしてつながりのある子たちにも連絡先や住所などを教えないでとお願いし、ようやく完全に縁が切れましたが。(その子の親も飼っている犬がうるさいからと口を輪ゴムで縛り付けその跡がくっきりと残っているような虐待を日常的に行う人間で人格に問題があることは間違いないと思います)

こういうタイプの人間て結構少なくない気がするんですよ。

執着している相手を見下し、自分は優れていて相手にとって必要な存在であると思い込むことで優越性を保とうとするという誇大妄想。本当はそうではないという現実から逃げる為の自己欺瞞。強い執着心や依存心、劣等感の裏返しなんですよね。

芸能人や有名人は週刊誌報道やSNS、出版物などによって、経済強者が孫ほどの若い異性と恋愛関係になるような姿を垣間見ることがあります。経済的、社会的に成功していても健全なパートナー関係を築いている人も沢山いると思いますし、経済格差があったり、歳の差婚や歳の差恋愛がダメだとも思いません。でも、中には明らかに経済力や社会的後ろ盾を目的に近づいてくる若い男女や、そういう相手をどこかで見下しながら性的搾取する経済強者の図式がある組み合わせもあると思うんですよね。

歳の若い異性をやたら獲得しようとするのは、自分自身の加齢や性的魅力に強いコンプレックスを抱えているからであり、世間にトロフィーを見せびらかす為の承認欲求であって、相手本人との恋愛を純粋に楽しんでいるわけではない。だから相手に対してリスペクトも無く、内心どうせ財産目当てだろうと分かっているので、信頼もしていない。

リスペクトも信頼も持てない相手に恋愛感情なんて果たしてもてるんでしょうか。相手を未熟だと見下し、この未熟で幼稚な存在には自分のような偉大な人間が必要であると優越感に浸るのは恋愛なんでしょうか。少なくとも私は尊敬できない相手との恋愛は無理だなと思います。

実態は経済目当てで性的にこびへつらう卑しい人間と、表面上の見栄や欲を満たす為のつまらない人間関係で財産や時間を浪費しているに過ぎませんよね。相手を見下しているつもりでも、そういう人間とそういう関わり方しか出来ないのであれば、見下した相手は鏡に映った自分の姿でしかありません。

こういうのも優越コンプレックスの現れじゃないかと思うのです。

人は成長することが出来る。欺瞞は成長を阻むものでしかない

人間て完璧な者はいないので、アドラーの指摘する通り誰でも劣等感や欠落感て多かれ少なかれ抱えるものであると思います。そして先にも述べた通り、別に完璧を目指すべきだとも思っていません。

でも劣等感や欠落感からの回避、或いはなんらかの目的の為に、人や自分を騙して偽ることってすごく不健全で闇が深い行為だなと思うんですよね。

人は色々と経験を経ることで成長していくことが出来ると思うのですが、優越コンプレックスから問題を無いもののように振る舞ったり、欺瞞や嘘や偽りで胡麻化したりし続ける限り、絶対に成長することは無いと思います。

人間て学び続ける姿勢がある限り、中年でも高齢者でも成長していくことが出来ると思うし、学ぶ姿勢を失ったら若者であってもそこから前に進むことは出来なくなってしまうと思う。

泣きわめいたところでカラカラの心に恵の雨は降りません。

言葉にしたこと、自分がやったこと、そしてやるべきことをやらなかったこと。全て自分の元に結果として顕れる。

問題は他人ではなく自分の中にある。自分を直視すること、自分を客観視することが大切だと思います。

人に執着したり、人に何かを求めるより前に、まず自分自身の問題に向き合う必要がある。たった一度きりの自分の人生をどう生きるか。これからの可能性として。

泣けば面倒みてもらえたのは赤ちゃんの時だけです。他人は自分の面倒を見させる為の奴隷ではありません。見下しにせよ、遜りにせよ、不健全な関係性は空気が澱んで清浄さとはかけ離れた不潔なものでしかありませんよね。