地底海に眠る

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「愛」とか「思いやり」という美徳の話

ミラーニューロンについて

毒親育ちで愛着障害を自認する私にとって、人間とはどう接したらいいのか、どう対応したら正解なのかがよく分からない、上手くやれる気が全くしない、非常に面倒くさい存在であるという認識がぶっちゃけ本音だったりするのですが、それでも人間界の片隅に生息している以上は最低限は関わり合わなければならないものでもあります。

 

人が「価値観が合う」とか「気が合う」というような(或いは合わないという)感覚を相手に抱くメカニズムは、医学的な観点から言うと「脳の反応が似ているかどうか」ということらしい。

脳自体がミラーニューロンの作用で一緒に居る人同士で影響し合うという側面もあるので、そもそも脳の反応が似ているから気が合うのだろうし、また一緒に居る人同士影響しあって脳の動きも似てくるし。

ミラーニューロンて赤ちゃんの頃に親(養育者)の感情や動きを模倣することによって社会性を身に着けていくという重要な働きがあるんですよね。

「子は親の鏡」という言葉がありますが、単なる遺伝子の影響だけでなく親の表情や立ち居振る舞い、社会性などをミラーニューロンによって模倣することで学んで体得していきます。

なので、あまり人と馴染めない人とか、人と気が合いにくい人、他者から理解されない変な言動が見られる人というのは、脳の反応において他者との類似性が著しく乏しいみたいです。そういう人も、世間一般からは浮いているけれど、家族や親族といった非常に内内のコミュニティでは似た者同士濃密な関係性が形成されていたりする(反社会的だったりしてヤバい可能性が高いですがw)。

このミラーニューロンシステムは広く情動系と結びついてコミュニケーションや共感などの働きとして顕れ、「相手の立場を脳内でシュミレーションして相手の感情を推測する機能」=いわゆる「思いやり」の心の働きをもたらすものでもあります。

 

なかなか面等向かってお礼や感謝の気持ちを伝える機会を持つことも難しいのですが、私も時々肯定的なフィードバックや、励ましや寄り添いの気持ちをいただくことがあります。

例えば、前回の記事を受けて「毒親育ちでも腐らずに頑張って生きている人はみんな幸せになっているよ」というような言葉、或いはコロナ騒動の頃にSNS上で孤軍奮闘状態の頃(大体私は孤立しがちw)背中を押してあげられたらというような寄り添う気持ちを向けてもらうこともあったりして、その他にも価値観の共感や生き方の賛同など、そういう風に励ましてもらったり、寄り添ってもらえることは本当にありがたいし、そういう気持ちをもらったことをいつまでも忘れずに覚えていたいなと思うんですよね。

 

反応性愛着障害=人間不信というか、人間に対する恐れが強いので、ネガティブな指摘に走りがちなところが不寛容だなと自覚しているし自分でもすごく嫌で、もっとこう「あなたのこういうところが素敵ですよ」とか「こういうところがあなたの長所ですね」という良いフィードバックをしていきたいなと思ってはいるんです。

人間ていいところもあれば悪いところもあって、完璧でないのは当たり前で、悪いところのフィードバックを適切に得られないと、その人はその欠点の把握ができないまま問題だけが起こり続けることになるので、悪いことについてのフィードバックは結構大切だと思う一方で、悪いところのフィードバックしか得られなかったらその人は自分が悪いところだらけの欠点だけの人間であるかのように誤認してしまいますよね。いいところも沢山あるのに。

 

毒親って子供に対して適切なフィードバックを提供できないところも問題の一つだと思うんですが、褒めることや認めることをせず、全て否定やダメ出しや抑圧ばかりで育てられると、自分はダメ人間で何の価値も無く、他人とは絶対に上手くやれないっていう確固たる自己認知が根底に築かれてしまうんですよね。なのでものすごく人間関係で疲弊してしまう。

また逆に、問題に対する適切なフィードバックや指導が全く得られないまま甘やかされて育てられると、自分の欠点や問題行動を自覚できないまま人と接することになるので、人から嫌われたり問題を起こしたりしてもそれを解決する能力が全く無く、社会に馴染めない人間に育ってしまう。

 

相手の立場を脳内シュミレーションして相手の感情を疑似体験し、それを元に他者に思いやりを示したり、相手を思いやってその都度適切なフィードバックを与えるという能力は「心」という情緒であると思われがちですが、実は知識や教養や正しい情報の取捨選択が出来る能力が伴わなければ適切に働かない為、知性が問われるものであったりもします。

愛の話

夏目漱石が「I love you」を「月が綺麗ですね」に訳したという有名なエピソードがありますが、あれは実は真偽不明なんですよね。夏目漱石の作品て性的な描写とかロマンチックな恋愛描写が全く無い為に、人間らしさがないと当時の文学界でも非常に批判されていまして笑。

夏目漱石は英語が非常に上手で英語の教師になり、国の命令で英文学を学ぶ為イギリス留学もしているんですが、もう文学なんか全然分からないと本人は嫌になっちゃって理論物理学の論文や科学誌ばかり読んでいたそうですし、教え子で物理学者の寺田寅彦に物理学の最新知識を教えてもらってそれが作品の中でエピソードとして採用されていたり、そもそも学生時代も数学の成績が良く、他の学生に英語で数学を教えるというアルバイトまでしていたそうで、完全な理数系脳の人だったりします。

シャイで情緒的な恋愛描写はほとんどせず、猫が銭湯を覗いて飼い主(漱石がモデル)が体調を悪くして青ざめている様子や、鼻毛を抜いて原稿に植毛し、白髪があったと妻に報告して「まあいやだ」とキモがられたり、イケメンの教え子(寅彦がモデル)がにこっと笑うと歯が欠けていて椎茸食べたら歯が欠けちゃったと言う話など、ユーモアたっぷりに書く人なんで、「I love you」を「月が綺麗ですね」に訳すようなロマンチックなポエムを書くタイプの人間では全く無い気がするんですね笑

ただ、この問題の背景として、日本ではもともと「愛」という言葉は男女間の恋愛において使われることはあまりなく、もっと広い人間関係においての「思いやる気持ち」「慈愛」として使われることが一般的でしたが、西洋文化が入ってきたことによって「I love you」に対して「あなたを愛しています」と「愛」が当てはめられるようになったのが江戸末期から明治時代あたりで、ちょうど夏目漱石の生きていた時代の頃のことなんです。

そういう過渡期において、「I love you」は「あなたを愛しています」と訳されるのが一般的となりましたが、英語の教師として先生ならどう訳しますか?という問いに対して「月が綺麗ですね」と訳すというやりとりがあったのかな?という気もするんですが、どうなんでしょうね。(ちなみにシャイだからこそはっきりと愛を伝えることが出来ず、恋する相手と共にいるだけで恋愛ホルモンの作用により全てが美しく輝いて見える心の浮ついた状態を表現したという感じかなと思います)

大和言葉だと男女間の恋愛は「恋しい」「恋焦がれる」「思う」「慕う」という言葉が使われ、「愛している」という言い方はしないんですよね。

私も「愛する」という言葉の使い方において「性愛」は数ある愛の中のほんの一つに過ぎない気がするんですが、世間一般では「愛する」=「I love you」(男女間の恋愛に限ったもの)になっているので、ちょっと皆とずれてるかもって自覚があります。

言葉って時代と共に使われ方が変わっていくことが多々あり、やりとりする双方に共通の概念が無いと伝達手段として支障が出てきてしまうので、「本来は」というのが無意味になってしまうことってありますよね。昔の使われ方とは全く違う使われ方をしている言葉も沢山あるし、変化していくことを受け入れるしかないのだろうなとも思います。

 

「共感」や「思いやり」は「愛情」

話が脇道にそれてしまいましたが、本来「愛」とは他者を思いやる気持ちとして広く使われるもので、ミラーニューロンによる相手への共感や思いやりは「愛情」の現れなんですよね。

赤ちゃんが信頼する親(養育者)の模倣をし学ぶこともまた愛情のひとつの作用でもあるんでしょう。

共感しない人、人の気持ちを分かろうとしない人、寄り添うことをしない人が、冷たいと思われるのもまた、人が思う「愛」が見られないからなんでしょうね。実際には愛があるかないかというよりはミラーニューロンシステムが適切な働きをしないからなのだろうと思うのですが。

個人的にいまいちしっくりこない「正論いうな」みたいな言葉も、本質的なことを言うと、他者に対してミラーニューロンによる模倣と寄り添いを求めているということなのかもしれませんね。立場を脳内シュミレーションして同じ感情を共感してくれよ的な?人はそれを「愛」だと感じるので。(しかしネガティブな感情の共有は双方の幸福感を下げるらしい)。

 

「ケーキの切れない非行少年たち」にも書かれているエピソードなんですが、どんな凶悪犯罪を犯した子でも、自分のことを「優しい人間だ」と思っているというのがあって、「優しさ」とか「愛情深さ」とかって、主観では絶対正しく把握できないものなんだなって思うんですよね。いわゆるダニングクルーガー効果の一つでもあると思うんですが、一定レベル以下の人は客観的自己を自力で正しく認知することが出来ない為に、自分は優秀であるとか、自分は優しいといった誇大妄想が起きてしまう。

人間のリアルな言葉ややり取りのコミュニケーションって限界があって、殆どまともに伝わることなんて無いような気もするんですが、その中で「察しろ」という社会的認知能力が否応なく問われてしまうし、それが出来ない相手は怒られてしまう。

「察する」とは何かというと、出来事や相手の立場などを推察して相手の気持ちを推し量ったり、思いやったりすることであり、まさにミラーニューロンシステムの能力が問われているわけですよね。ちなみにASDスペクトラムな症状の中で模倣の障害がみられるタイプの人はこのミラーニューロンシステムの機能障害が確認されているようです(全てのASDではない)。ASDに限らず共感性が乏しい人や察する能力が低い人などは(定型発達であっても)ミラーニューロンシステムの機能障害があるのかなという気がします。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jnns/12/1/12_1_52/_pdf

女性が「察してちゃん」などといって嘲笑されることが多いですが、ミラーニューロンシステムによる察する能力や思いやる能力って本来人間の高度な認知機能によるものなので、なぜその能力が欠落した者が相手側を嘲笑するのか全く意味不明ですが、そういうところにも共感性の乏しさや相手の気持ちを推し量る能力の欠如を感じさせますね。

ちなみに女性ホルモンが脳の認知機能を高める作用があるので一般的に女性の方が男性よりもIQの中央値のスコアが高かったり、社会的認知力が高い傾向が強いですが、女性が全員共感性や思いやりがあるわけでは当然無く、個別に見れば個人差が大きいです。

 

実は読書、特に物語を沢山読むことがミラーニューロンシステムを鍛えるのに非常に効果的であると言われるんですよね。これは実用書やビジネス本ではなく「物語」限定です。漫画や物語のあるゲームでもいいと思うんですが、主人公に共感したり、出来事を疑似体験している時ミラーニューロンが働いている。特に脳が成長する時期である子供の頃に沢山本を読むというのはとても脳にいいんです。

他者を思いやる能力は教養の一つであると言われる証左でもありますね。

 

まとめ

ミラーニューロンには共感や思いやりといった人間関係の構築に好ましい作用をもたらすポジティブな(いわゆる愛情的な)作用がある一方で、他者のイライラや怒りといったネガティブな感情の感染により受けるストレスや、逸脱行動の模倣や反社会的な価値観の共有をしてしまう危険性など悪い側面もあります。

悪意があろうがなかろうが、共感性が乏しく、大変な状態に置かれていても「言ってくんなきゃ分かんないだろ」「でた察してちゃんw」などと助けようともしない相手からは愛情を感じないですよね。

ミラーニューロンシステムが適切に働いている人の方が愛情深く優しいと人から好まれ、そうでない人は冷たい人間だと思われてしまいます。

またミラーニューロンの作用があることによって、いつもイライラしている人や怒っている人、ネガティブで嫌なことばかり言う人の影響を受けてストレスを受けてしまったり、本来模倣するべきではない反社会的な逸脱行動などもミラーニューロンは模倣してしまうので、人生においてどんな人間と一緒にいるか、どんな人と一緒に過ごしたいかはやはり非常に大きな問題ですよね。