地底海に眠る

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理論と実感

将棋の理論的/抽象的思考力の中で存在感を発揮するヒューリスティック

将棋の名手というのはなん手も先まで読めるコンピューターのような理論的/抽象的思考力に長けているというイメージがあります。

ヒューリスティックというのは日本語で言うところの「経験則に基づく判断」のことで、多くの人においては認知バイアスによる誤った結論を導きがちなため理論的思考とは対極にあるものとみなされがちなのですが、しかし将棋の名手と言われるような人たちは、将棋の何百通りもあるような手のうちから自分の経験則による「とるべきでは無い手」や「この相手に対してはより効果を発揮するであろう手」などを瞬時に取捨選択し、コンピューターのアルゴリズムよりも少ないシミュレーションでより効果の高い手を素早く繰り出すことが出来るのだと言われます。

つまり理論的思考とヒューリスティック(実感)は決して相反するものでは無く、事実に即した正しい情報に基づくものであれば両者が伴うことは相乗効果でより素晴らしい結果をもたらすものだと私は思います。

 

理論だけの人はともすれば「頭でっかち」なんて揶揄されることもある。理想を言うばかりで行動が伴わない人間は「口だけ人間」「嘘つき」などと信用を失い嫌悪されるようになる。

この物質と五感で作り上げられた世界では、理論だけでは価値が無い。理論はそれだけでは空虚なもので、現実に体現しなければ意味が無い。実感すること、体験から学ぶこと、行動で証明すること、つまりヒューリスティック(経験則)は非常に重要なものだと思うのです。

AIが台頭して人間が仕事を奪われると危惧する人もみられますが、理論的思考力や抽象的思考力の長けた人間が実体験で培う鋭いヒューリスティックにはコンピューターのアルゴリズムでは到底太刀打ちできないのではないかと思います。

加齢のパラドックス

世の中を見ると「年を取ること」は非常にネガティブなイメージが強く、若さを失うことはすなわち人間としての価値が無くなることのように認識され、低レベルなコミュニティでは中年や高齢であるという「年齢」だけで侮辱に値するという価値観が横行しているのを目の当たりにします。

しかしこの「若さ」に価値があり、「高齢」に価値が無いというのは、「誰にとって」の価値の有る無しなのかと考えると、「男性」にとっての「その女とセックスをしたいかしたくないか」の価値の有る無しなのだと思うのです。

これを原始人みたいな女同士がお互いの頭をぶん殴りあう時に武器として振り回すのは、屠殺を待つ豚が「自分の方が美味しい豚だ」と言い争っているようなもので、非常に滑稽でもあり、また非常に憐れだなとも思うんですね。

女性が男性に対して性的魅力を発揮するのは「より良い相手との繁殖機会を得る為」です。そのより良い相手とは優れた遺伝子を持ち、子供を産み育てる支えとなる男性のことを指します。

しかし女性の繁殖のタイミングは生物的および社会的条件を満たすと大体20歳から40歳までの20年間に限られます。生まれてから20年、40から亡くなるまで(女性で最も多く亡くなる年齢は92歳と言う人もいる)。長生きする女性は月経がある年数よりも月経が無い年数の方が人生を占める割合が多い。私たち女性は「男性にとっての性的魅力」だけの価値しかない存在ではありません。それは長い人生のほんの僅かな要素でしかない。それよりもはるかに多くの部分をひとりの人間として生きている。

加齢のパラドックスとは、年を取り老いていくことは一見不幸なことのように思われるが、実際に調査してみると年を取った人の幸福感は低下しにくかったという現象を指す言葉です。

若さ(時間)と経験は等価交換

私は虐待育ちの愛着障害もちを自認しているのですが、愛着障害があったのではないかと言われる有名人の一人にオードリー・ヘプバーンがいます。彼女の生い立ちは第二次世界大戦の激動の時代における主義や思想やレジスタンス活動なども含まれていて色々と複雑な様相を呈しているのですが、端的に言うと無職の働かない父親がナチス思想にかぶれて妻子を捨てて出ていったということらしいです。彼女の母親はユダヤ系のオランダ貴族(昔の経済的成功したユダヤ人は娘を欧州の貴族に嫁がせることがあった)で、オードリーにはユダヤ人の血が流れています。父親がナチスに傾倒するというのは非常にキツイ話です。

そもそも子供にとって「両親の離別」や「貧困」「劣悪な環境」というのは多大な悪影響をもたらすもので、被調節遺伝子のスイッチのオンオフにも悪影響をもたらすと指摘されています。

(被調節遺伝子というのは、例えば牛乳を飲んでお腹を下す人は乳糖を消化する代謝を司るラクターゼ遺伝子のスイッチがオフになっている=乳糖不耐症の状態ですが、全ての人間は赤ちゃんの時母乳を飲んで栄養を得る為にラクターゼ遺伝子のスイッチはオンになっているはずで、成長する過程でオフになりそのままもう一生オンにはならないなどの例のように、人間の中の遺伝子には被調節遺伝子というものがあり、スイッチのオンオフがなされているのだそう。一部の人間はラクターゼ遺伝子がオンのままなので乳糖を消化することが出来る)

反応性愛着障害では乳児期からの虐待やネグレクト等が脳機能、特にドーパミン報酬系の機能低下をもたらし、後天的な発達障害のような状態になることは既に科学的な研究によって指摘されているのですが、オードリー・ヘプバーンも父親からのネグレクトやその後の貧困(第二次世界大戦によるドイツ軍のオランダ占領などで、彼女はチューリップの球根やリンゴジュースなどで飢えをしのいだと言われる)など、壮絶な体験が彼女に大きなトラウマをもたらしたことは想像に難くなく、実際彼女は大人になってからも父親に似た男性に愛を求めては裏切られ傷つくという恋愛を繰り返しています。

不倫や二度の結婚と離婚を経て「ようやくたどり着いた」という最後にして最愛のパートナーとされるロバートと事実婚に至るのは50歳の時なんですよね。そして彼女は愛にまつわる名言を残しています。

Love is action. It isn’t just talk, and it never was. We are born with the ability to love; yet we have to develop it like we would any other muscle.

「愛とは行動なのよ。言葉だけではだめなの。私たちには生まれた時から愛する力が備わっているわ。でもそれは筋肉と同じで鍛えなければ衰えていってしまうの」

I think love is more important than being loved.

「愛されることより、まず愛することが大切だと思います」

Every kind of day is to enjoy the day thoroughly.Plain one day.Plain people.The past thinks you told me the thing which should be appreciated at present.If I keep worrying about the future, I think of present, oh, enjoyed room is taken away.

「どんな日であっても、その日をとことん楽しむこと。ありのままの一日。ありのままの人々。過去は現在に感謝するべきだということを私に教えてくれた気がします。未来を心配ばかりしていたら、現在を楽しむゆとりが奪われてしまうから」

The greatest victory has been to be able to live with myself, to accept my shortcomings and those of others.

「私にとって最高の勝利は、ありのままで生きられるようになったこと、自分と他人の欠点を受け入れられるようになったことです」

 

彼女のこれらの言葉は、その実感を伴う体験をしたことが無い人にとっては単なる「美しい名言」に過ぎません。でも、体験を経た人にとっては実感を伴う真実を突いた核心そのものなんです。

これってもしかしたら同じ過程を経てきた愛着障害もちにしか分からないものなのかもしれないとさえ思うことがあります。

目も見えず耳も聞こえないヘレンケラーが初めて「water」を理解した時のような衝撃は、目が見えて耳が聞こえる人には絶対に体験出来ないのと同じように。

愛とは他者に求めても決して愛されているという確信を得ることは出来ない。愛とは自分の中で感じるもので、愛されることを求める限りそれは蜃気楼のように決して追いつくことは出来ない。愛は「すること」、言葉でいうだけで行動が伴わなければ何の価値もない。愛することで初めて私たちは幸福を感じることが出来る。美味しいものを食べて美味しいと感じ、夜はぐっすりと眠ることが出来る、そんな何でもない日常こそがセロトニンのもたらす穏やかな幸福そのものであり、ドーパミン報酬系がもたらす強い渇望や興奮(物質欲や承認欲求)は一時的なものであって決して私たちに幸福を約束するものではない。

これらのことは私が実感として得たもので、昔からそれは言い続けているのだけれど、それをただ見ただけ、聞いただけの人には多分一ミリも伝わってないと思うんですね。実感を伴う経験を経た人にしか理解できないと思う。でも聞いた時にはまだ理解出来なかったとしても、経験することで「このことだったんだ」と理解できる瞬間がきっと訪れるとも思う。

精神と時の部屋でもあれば別ですが、経験は時間と等価交換なんですよね。私たちは時間の経過と共に若さを失い、一歩一歩死に近づいていく。でも経験は人生を豊かにし、私たちは若さと引き換えに成熟していきます。そしてそれは幸福感を高めてくれる。

子供の頃の自分、若い頃の自分を振り返っても決して私はあの頃に戻りたいとは思いません。過去の自分は今よりも生きづらく、今よりも未熟だったと思うので。

オードリーの若い頃は世界中が憧れるような美しさがありました。それは確かに非常に価値があると感じさせます。それでも彼女は未熟さゆえに「父のような男性から愛される」という蜃気楼を追い続けてその度に傷ついた。若くて美しいオードリーは決して幸福ではなかったと思います。彼女は50歳になるまで不倫や報われない結婚や離婚を繰り返しています。それはむしろ彼女に類稀な美貌や成功があったからこその困難だったのかもしません。強い魅力や経済力がある女性に対して、欲望が強く、自分の利益ばかりで他者への愛を持たない男性が表面上の「よい顔」、言葉だけの偽りの愛を見せて近づいてくることは珍しくない話です。

そういう経験を経て学び成熟していくことでようやく幸福にたどり着くことが出来た。一方向に一直線上に続く時間軸において、経験は老いていくこととの等価交換になりますが、彼女は若い頃が良かった、ずっと時が止まったままで構わないとは決して思わないのではないでしょうか。

理論と実感

理論というのは具体的な事象や体験から核心を抽象化するものであり、また抽象化された理論は具体的な事例を言語化するのに役立つもので、この二つは両立していなければならないんですね。

理論だけ学んで覚えたとしても、実際に体験したり実感を伴わないと的確に使用することが出来ないので現実に生かすことが出来ない。そして実際に体験したり実感したりしたことでも、理論的/抽象的思考力による言語化能力が伴わないと、それを的確に抽出することが出来なくて体験や実感が成熟につながらないまま流れていってしまったり、間違った認識や思い込みで歪められてしまって、間違った情報をもとに築かれたヒューリスティックが判断ミスをもたらすことになる。

以前私は人間にはIQが非常に重要だと考えていた時期があったのですが、最近違うなと思うようになりました。多分IQは125程度あれば十分だと思う。IQが高ければ高いほどいいとかではなくて、IQは低いと困難であるのは確かだけれど、IQが高いことと人間的成熟は決してイコールではなく、どれだけの経験を積みそれがその人に健全な成熟をもたらすかの方が人の魅力としてははるかに大きな要素であると。

最早人間の棋士はコンピュータの繰り出すランダムなアルゴリズムには勝つことが出来ない時代になったとしても、経験を積んだ棋士ヒューリスティックな判断による人対人の勝負にはきっと見る人が心を動かされるドラマがあるでしょう。

 

私が何故こんな話をしたかというと、愛着障害もちがまた一人そこにたどり着くことが出来たんだなというのを垣間見たからでありまして。

誰かの経験から抽象化された理論が語り継がれて誰かのもとに届き、それが道しるべとなってある地点にたどり着くことが出来る。

虐待の連鎖とか負の連鎖とか、悪いことばかりが連鎖連鎖って言われるけど、幸福や困難の克服も人から人に波及して確かに人間は少しずつ前進しているんじゃないかとも思うんですよね。

100年前とは比べ物にならないほど人類は確かに成熟していると思うので。勿論個々を見たら100年どころか300年も前の時代からタイムスリップしてきたんかみたいな未熟で狂暴な人間も少なくないとは思うんですが。