地底海に眠る

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宗教2世問題について考える

山上徹也被告が起こした安倍元首相暗殺事件は、大きな衝撃と共にそれまで私たちの目から隠されていたいくつかの事を浮き彫りにさせました。

例えば過去に合同結婚式霊感商法などで世を賑わせていた旧統一教会が、報道から全く姿を消したものの、実はその裏で名前を変え姿を隠し自民党などの政治家と結託して、票や無償労働を提供する代わりに宗教の権威付けや司法に介入するような忖度を得ていたという疑惑が、その後まるで堰を切ったように報道されています。これらについての一つ一つの精査は私個人では難しいのでここでは言及しませんが、日本は政教分離を掲げているにもかかわらず、実際のところ宗教団体が信者を支持母体にして政党をつくり政治家として立候補するというのは珍しく無く、自民党と連立を組む公明党創価学会が支持母体となっています。

古代より宗教は政治的主権を正当化する最も強力な方法のひとつでありつづけてきました。天皇一族の祖先神が天照大御神という「神」として語られるのでも分かる通り、ローマ皇帝が神話の神々の一員として語られたように、旧約聖書ヤハウェが嫉妬深く怒りに満ち、かつての古代イスラエル多神教の中の一人に過ぎなかった痕跡(それも頂点ではない存在として)をうかがわせるように、古代から権力者に政治的権威を与えるものとして「神」が中心的な役割を果たしてきたことは歴史的な事実といえるでしょう。

山上被告が起こしたこの事件は、古代から続く宗教と政治的権威の癒着は、21世紀になった現代でさえ決して過去のものではないことを浮き彫りにしたのです。

 

私たちが顕微鏡でミクロの世界を覗くことが出来なかった頃、病気は小さな細菌やウイルスが起こすものではなく、妖怪や妖精や悪魔や神や人の恨みがもたらす呪いや天罰でした。

私たちが巨大で精密な大型望遠鏡で過去の宇宙の姿を観測することが出来なかった頃、夜空は神々の物語が映し出されるスクリーンであり、地球は宇宙の中心でした。

私たちが自分の中に遺伝子という設計図を持っており、地球上の全ての生き物の祖は遡れば同じであるということを知る前、ミツバチやホタルは草の露から生まれ、ウナギやタコは海の泥から生まれるのだと信じられていました。

恐ろしい牙を持つ熊や狼は神であり、恐ろしい権力者である人間もまた神でした。

神は不安や恐れから身を守る為に縋る庇護者でした。

医学が未発達だった頃、宗教儀式は病を治す手段でした。

教育論や児童心理学の無かった頃、子供を育てる為の便利な脅しや躾でした。

法律も憲法も無かった時代、宗教はその役目を担っていました。

イベントや公的機関や福祉や公助を宗教が代替していました。

同じ神を信じることは同じ組織に属するということであり、別の神を信じる者たちは即ち敵対者でした。

 

しかし科学が発展し、目に見えない小さなものから、到底把握しきれないような大きなものまで認知することが出来るようになり、138億年まえの宇宙の始まりについて知ることが出来、またいつかくる地球や太陽の寿命まで予測できるようになった現代となっては、もはや従来の宗教はあまりにも原始的で荒唐無稽で暴力的であるとしか言えません。

 

宗教は物事をうまく言語化できなかった過去の人間たちが便宜的に作り上げた代数にすぎないのです。

 

私は宗教という存在そのものを否定するつもりはありません。宗教は人間の歴史そのものでもあり、過去の人間の心の在り方を具現化するものでもあり、また科学で解明されて尚、世界がなんと心をときめかせる不思議で満ち溢れているかに驚かされる、このエモーショナルな感情を語るのには、神や神秘という言葉は全くその価値を失わないと感じるからです。

私の中には確かにアジア人特有の自然崇拝や八百万神への敬虔な想いがあります。

真空の揺らぎから非常に小さな宇宙という時空が何故か生まれたこと、本来であれば粒子と反粒子は対となり全ては消滅していたはずなのに、何かしらの要因によりたまたまこの世界は物質で満たされているということ。138億年の時を経て星の溶鉱炉超新星爆発が生み出した星屑が私たちの身体を構成しているという事実、地球の生き物は皆一つの同じ祖先から生まれた親戚であること。突き詰めれば宇宙の全てはひとつながりなのだということ。

これらは神や万能という虎の威を借る誰かさんのメンツを潰し恥をかかせ、また間違ったことを信じ込んでいた人にとっては足元を揺るがすような世界の崩壊を感じさせたのかもしれません。しかし科学は無知な人間がでっちあげた妄想よりもはるかに面白く壮大な物語を私に教えてくれます。それに過去において科学という手段を持っていなかったとしてもクリティカルに何かを感じ取って言語化していたごく一部の聡明な人間の存在に驚かされたりもします。

 

「宗教を利用してでっちあげられたある種の人間の権威」は失墜したかもしれませんが、人間のエゴから切り離されたところでの、宇宙や自然という”神”は全くその神秘性を失ってはいないのです。

宗教が持つ悪しき側面

神秘が私たちの心に畏怖や畏敬の念を掻き立てたとしても、科学というより精密な言語化の手段を得た以上、宗教は代数としての役割をもう果たす必要はありません。それらは法律や選挙や公的機関や哲学や科学や医療や教育や支援活動がそれぞれに後を引き継ぎ、宗教はもはや個人の趣味やサークル活動くらいの存在でしかなくなったわけです。

この「宗教における”人間”の神秘性」が失墜した現代においての宗教活動とは、ピラミッドの頂点に存在するカリスマとその側近が下部組織の人間から経済を吸い上げるという支配と搾取の構造であるにすぎません。

宗教組織が下部組織の人間を集める時、そこには必ず何らかの現世利益がうたわれます。それは「病気が治る」とか「試験に受かる」「仕事がうまくいく」かもしれませんし、「禍から守ってくれる」とか「幸運に恵まれる」などかもしれません。「成仏できる」とか「来世は経済的に豊かな家に生まれ変われる」を信じている人もいるでしょう。旧統一教会で言えば「浄財すれば悪霊を払ってくれる」「壺を買えば悪霊から守ってくれる」「合同結婚式で結婚することができる」なんてものも。

宗教組織は、神という神秘を利用して権威をでっちあげ、できっこない嘘の利益を与えられると信じ込ませて、美味しい蜜をちらつかせて人間の欲望を集め、支配搾取する悪しき人間の経済活動の罠なのです。

世界公正仮説

なぜ人は宗教組織の本来できっこない嘘の利益の標榜に簡単に騙されてしまうのか。その根底には世界公正仮説という認知バイアスがあります。

人間は悪いことをしたら天罰が下るし、良いことをしたら良いことがあるのだと盲目的に信じているところがあります。それは例えばボランティアや寄付などによって「徳」を積もうとしたり、他者を害する行為を自制して天罰を回避しようとすることで、結果的に利他行動や治安維持につながるという良い側面も持っていますし、そのような認知バイアスがそれを持つ人の幸福感や生活満足度を高めているとも言われます。

一方で世界公正仮説は、天災や病気に見舞われた人は何か悪いことをして罰を受けたのだとか、前世で犯罪を犯したのだというような、被害者が受ける困難がその人背負った業の証であるかのような誤謬をひきおこし、いわれのない断罪や差別を起こす負の側面もあるのです。

宗教にはまりやすい人はそういった世界公正仮説の認知バイアスがより強い人であると言えます。

自分に不幸があるのは前世で悪いことをしたからであり、禍は罪が招き寄せた悪魔や悪霊の呪いであり、宗教に加入すれば神様が守ってくれる。金は汚いので浄化する必要がある。沢山浄財すればそれだけ徳を積める。幸せになれないのは努力が足りないからである。神を疑えば罰が当たる。

実際には何の宗教組織とも迷信とも無縁で、法律の許す範囲内の中で余計なことに縛られることなく自由に生きる方が100倍も楽に生きられるのですが、一度宗教組織の作り出す罠にはまってしまうと世界公正仮説の無限ループの中に囚われて抜け出すことが出来なくなります。神の加護や現世利益を得る為に入ったはずが、実際には献金や奉仕に時間や経済を搾取され余裕がなくなり疲弊し、悪いことが起こるたびに自分の罪への罰と感じ、更に献金や奉仕に駆り立てられるアリジゴクに落とされるのです。

宗教2世について思うこと

実は私自身、祖父が創価学会で母や母方の親戚の大多数も創価の宗教3世です。しかし私は小学生の頃に創価学会には入らないと入信を拒否した為、熱烈な宗教信者だった母との間には大きな確執があります。

私は物心つく前から母から虐待を受けており、父からはネグレクトされ、反応性愛着障害を自認しており、親に対しての愛着形成が無かったから宗教も同調しなかったのかもしれません。

母は朝晩熱心に一時間以上も勤行を行い、途中で鬼のような形相で私を引きずり回し、家事労働をさせ、目つきが気に入らないといっては私の頭や背中をぼこぼこに殴りつけました。

これは後で知ったのですが、創価には「3世は福子」というような教えがあったらしく、また家族全員が信者にならないと幸福になれないというようなことも言われていたようです。宗教を拒否する私の存在は、母にとって不幸をもたらす悪魔の子供だったのでしょう。おそらくは題目を唱えながら、こんなに頑張って勤行しても、入信を拒否する娘の存在のせいで自分は幸福になれないのだという思いが湧き出て、私への怒りが爆発していたのだろうと思います。

母は私の悪口をいいふらし、婦人部の女性が家を訪れて私に入信するように何度も何時間も話しをしてきたり、母の周囲の人たちからはとんでもない親不孝者であるという目で見られたりしていました。

未だに私にとって大多数の人間は言葉の通じない狂暴な狂人であり、私は集団に対して帰属意識を持つことが出来ません。希死念慮を抱き続けており、子供の頃は三度自殺を試みました。私が25の時母は癌で亡くなりましたが、あの時母が亡くなって、初めて私は自分の人生を取り戻すことができたように思います。私は人生の全てを母に支配搾取されていた。母が死ぬか、私が死ぬかの二者択一しか無かったと、今でもそう思っています。

 

逆に私が受けたような虐待も無く親との愛着が形成されていた場合だったらどうだったのでしょう。周りにはそういう宗教2世、3世がもちろん沢山いましたし、今も身近なところや、ネットやメディアでそういった人を見つけることがあります。

彼らの多くは基本的に穏やかであり、浅い関係性の中では一見なんの問題も無いように思います。

しかし話をしていると気づかされるのです。彼らから出てくるのはひたすらに宗教思想の言葉だけだということに。

宗教思想が全てダメだとは思いません。仏教やキリスト教ヒンドゥー教などからは有益な哲学や教訓も沢山見つけることが出来ます。

しかし中には何の意味も無い言葉の羅列でしかないことも、今の倫理観や法律から大きく逸脱した悪しき慣習や偏見も、科学や医学から大きくかけ離れた迷信や誤りも沢山あります。

彼らからは、時と場合や善悪や正誤の区別なく、ひたすらにそれらが垂れ流されるだけなのです。

そして大抵の場合彼らは、有益な哲学や教訓でさえも、全く本質を理解できていません。口から出てくる思想の垂れ流しは、その中身も理解されておらず、現実の行動にも何一つ現れていないのです。

それは例えば非暴力・不服従や宗教間争いを平和的解決に導こうとしたガンジーヒンドゥー教徒の過激派の青年によって暗殺されたという事実でも分かるように思うのですが、宗教組織に加入することや思想を「覚える」ことは、その人がその思想を理解したり体現したりすることとはイコールではないということです。

仏教には「神を疑わない者よりも、神を疑う者の方が早く成仏することができる」という教えがあるそうです。

何も考えずにただ丸暗記するだけのものがそれを理解しているとは限りません。むしろ疑い、咀嚼し、そのうえで理解した者の方が、より深くその真理に向き合っているということも。

愛着形成された親子関係の中で、或は帰属意識をもった集団組織の中で、子供が親や大人たちの信じる思想を丸ごと信じて共有することは、子供が生き残る為の命綱でもあります。それを拒否したら私のように親に仇を為す悪魔の子供として虐待されたり命の危険にさらされることになりますし、逆に受け入れることで寵愛を受けることができます。

彼らが宗教思想を自分の考えの代弁者としてただ唱えるのは、自分の考えを言うよりも、教祖や神の言葉を唱えたほうが「ハクがつくし、ウケがいい」と学習しているからです。

そこには善悪も正誤もありません。ただ受け入れたものが庇護者から寵愛を受けることができ、覚えて唱えさえすればすごいすごいと褒められて、まるで神そのものと一体であるかのような自己肥大を抱くことさえできるというだけです。

子供の頃から宗教思想の純粋培養された人は、パンパンに宗教思想が詰め込まれている人間の形をした空っぽの器にしか見えないのです。