地底海に眠る

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母親になって後悔してない

オルナ・ドーナトさんの「母親になって後悔してる」という本についての話題をたまにネット記事などで見かけるんですが、実は私はこの本を読んでいません。

特に40代以前の人たちが経験してきた社会の在り方、結婚や夫のこと、子育ての大変さなどを考えれば、読んだら多分分かることや共感することも沢山あるだろうなと思います。だからこそ子供の尊厳に関わるようなネガティブな思考を自分の中に取り入れることのリスクを回避したいと思って。

人間はミラーニューロンといって共感する脳の機能を持っています。なので誰と接するか、誰の意見を聞くかは自分が思ってる以上に自分に強い影響をもたらすことになります。線引きしようとか、ここからは私の責任の負える範囲ではないと、理屈で分かっていても人に引っ張られてしまうことも多々ある。

 

女性の生きづらさや社会の在り方について一石を投じることはとても重要なことだけれど、それが子供の尊厳を傷つける方向にいくのは完全に間違っているし、私は子供に対してそんな風に思いたくない。とってつけたように「子供のことは愛しているけれど」というなら、言葉ではなく行動として現れるはず。様々な生きづらさや困難の問いかけのタイトルが「母になったことの後悔=子供への存在否定」として現れている時点で、子供のことは愛しているけれど…というのは本心とは思えません。

子供を苦しめる母親のダブルバインド

グレゴリー・ベイトソン統合失調症の子供の母親が口では愛していると言いながら、子供が触れたりハグしたりすると拒絶反応を示すという言語と非言語での相反する言動(二重拘束)が、子供に葛藤を与え苦しめ、それが繰り返されることで子供を統合失調症にすると指摘しました。

脳医学としては母親のダブルバインドが子供を統合失調症にするというのは完全に因果性を誤っていると思いますが、このダブルバインドが子供を酷く苦しめることは事実です。「おいで」と言われて近づくと拒絶される。しかし「おいで」といわれても警戒していくことを拒めば「なぜ来ないんだ」「母親を信用しないのか」となじられることになる。

ダブルバインドは本人が無自覚に行っていることが多く、また多くの場合それに苦しむ子供は問題を言語化して指摘することが出来ません。

統合失調症の子供を育てる母親はそれが母親の育て方のせいだと言われることも含めて、きっと沢山辛い思いもしてきているでしょう。「子供を愛してはいるけれど」は母親なのだからそうでなくてはならないという「~~べき」思考、または自分を守る為の建前であり、「母親になんかならなきゃよかった」は隠しようのない本音の部分。

分析はできるしまあ理解もできるけど、その深淵に落ち込んだら地獄が待っているなと思います。自分も子供も苦しむだけ。そういう思考回路にはなりたくない。共感したくないですね。

女性に選択肢の無かった時代

今でこそ女性が経済自立して当たり前、女性も大学出てキャリアを積むのがエリートコースといった感じになっていますが、それは小泉政権下で非正規雇用制度が導入されて男性の中央値の収入が著しく減少し、それによって男性一人の所得では到底家庭が維持できなくなったことの副産物であって、それ以前は男性が経済を独占し、女性は学歴やキャリアの高い女性はモテない、25過ぎたら行き遅れ、お局様と嘲笑され、シングルマザーや未婚の母子も蔑視され、女性の経済自立は社会的にとことん阻まれていました。

また、女性が経済で成り上がる為には、性的魅力を最大限に使って男性に取り入り気に入られることが当たり前で、性的魅力が乏しい女性は男性からの風当たりが非常に強かった。政治家の問題発言でもわかる通り、いまだに昭和の高齢男性は部下の女性を性的価値で誹謗中傷しますよね。

このご時世でもいわゆる港区女子のような「美人は2億円得するんだ」などと頑なに信じて性的魅力を磨き、男性に媚びることで利益を得ようとする女性も少なくありません。

実は私自身も昔不用品の買い取り依頼をした男性がどうやら私のことが好みだったらしく、なにか奮発して少し良い価格で買い取りしてくれたという成功体験があり(笑)、最近貴金属や宝石を買い取ってもらおうと思ったときにそれを思い出し、化粧して見た目を取り繕って出かけたことがあります。結果として受付の男性は値段を決める立場になく、裏でネットによって専門家が鑑定するシステムで、期待していたような買い取りアップは不発だったばかりでなく、やたらと彼と私の共通点(年代や昔好きだった音楽など)を探された上、週に一回「不用品ありませんか?」の電話がかかってくるようになりとても辟易しました笑。別におしゃれしただけで露骨な性的アピールをしたわけでもないんですが、何かしら下心(笑)が伝わったのかもしれません。

優遇してもらったり何か得することがあるんなら女を武器にしたっていいじゃん、いい女の特権だよ!って思う人もいるとは思いますが、でもやっぱり男性の性的搾取やそれを提供することが「当たり前」になることは、そうではない実力のある人が性を提供しないことで冷遇される恐れがあったり、パートナーとの信頼関係が著しく損なわれたり、ストーカーや性暴力などを誘発する恐れがあったりと、リスクはとても高いです。

男性は想像してみて欲しいのですが、もし仕事を得る為に必要とされることが実力を示すことではなく、ジャ〇ーズのように夜な夜なおじさんが布団に来て口淫されることを受け入れることだったとしたらどう思いますか?普通絶対嫌だなと思うと思うんです。

それを受け入れる人は社会で成り上がることが出来て、それを受け入れない人は冷遇される世の中って最悪だと思います。

今の40代より昔の世代の女性は本当にそういう時代に生きていたので、中には結婚や子供を産むことが「他に選択肢が無かった」と感じている人も少なくなかったのではないかと思います。今の時代のように「自分は自由でいたいから結婚はしたくない」とか「子供は好きではないから産みたくない」「仕事に支障がでるから結婚は考えていない」などという選択は許されない社会だった。

産めよ増やせよが正義の戦争直後~男性独占経済が終わるまで、結婚しない/子供を産まない女性、独身女性や母子家庭は、露骨に差別や蔑視、冷遇される時代でした。男性だけでなくそれが当たり前だと思っている女性たちからも、異端者として虐めの対象となったのです。

自己決定権は自分の人生を幸福に感じさせる

かつての日本やイスラム教国のように、社会の囲い込みで他に選択肢が無かった、差別や蔑視を受けるから到底他の選択肢など選びようがなかったというのは本当に悲劇的なことで、やはりそういう世の中であってはならないと強く思います。これからも女性の人権や尊厳については言及していきたいと思います。

でも同時にその憤りの矛先が立場の弱い、それこそ自分で選んで生まれてきたわけでは全くない子供に対して向けられていることがあまりにも酷いとしか言いようがないんですよね。

世の中には「みんなにそうしろと言われたから」とか「私はべつにやりたくなかったんだけど」というような言い方をよくする人っているんですよね。他力本願で自分の性的魅力などの武器を磨いて男性に取り入って何か優遇してもらおうと、自分から積極的に関わっていっていき提案にものっかっていくのだけど、結果として良いリターンがあれば自分の性的な魅力のお陰だと思いやってもらって当たり前、結果として問題がおこったり悪い結果となった時には、自分でやったことにも関わらず「人に言われてやっただけ。私は悪くない」と責任転嫁して不貞腐れて問題から逃げるだけなので、世間からは当然理解されることが無く、無責任な人間、反社会的な人という印象を与えます。

「皆が結婚してるから自分も結婚するのが当たり前だと思った」とか、「結婚すれば幸せにしてもらえると思った」とか「子供を産めば男性の愛情を独占できると思ったから」とか「幸せそうな人が持っているものが欲しかった」とか、どのような選択であったにしろ、余程人権を無視した強要などがあった場合でなければ、やはり自分がそれを選択したという自覚は社会人である以上は必要不可欠で、結果として苦労や困難があったとしても、それを他人のせいにして逆恨みしたり開き直ったりするような幼稚な言動は誰にでも通用するわけではありません。

どんなに他人のせいにしようとも自分の人生は自分が担うものでしかない。だから自分の人生の重要な選択は、他人のいいなりや他人の価値観に委ねるのではなく、自分にとってそれが本当に納得できる選択かどうかをよく考えて判断するべきなんですよね。

それは自分の人生の責任を持つことでもあり、自分の人生を納得して生きるってことでもあります。そうやって真剣に考えた結果の選択であれば、困難やリスクがあったとしてもちゃんと自分事として受け止めることが出来ます。反省や後悔することがあったとしても、自分で考えて実行する力がある人は、それを学びとしてまた前に進むことができる。誰かのせいにして責任から逃げている人はいつまでも同じところから前に進むことができません。とにかく他人の選択に依存して、いいことがあればラッキー、嫌なことがあれば人のせいと、ただくじをひいているだけでしかない。

何かを選ぶことは、それを選ばなかった場合の干渉する全ての選択肢を失うこと

人生は一方通行で後戻りすることはできません。特に女性の場合子供を産むのには明確なタイムリミットが設けられています。子供を産むことによって女性は自由や経済自立など多くのものを失うリスクがあります。

しかしじゃあ子供を産まなかったとしたら、唯一無二の可愛い我が子と楽しく過ごす日々も無いし、40、50となった時にはもう子供を授かることは出来なくなってしまう。例え人工授精などで子供を授かることが出来たとしても体力勝負の育児はとても大変でしょうしお金も沢山かかるかもしれません。それがまた新しい後悔を産む可能性もあります。

全部完璧で何一つ問題のない人生なんてありえません。それに苦労や困難が不幸であるというわけでもない。あの時を振り返ったらもう二度と御免だわ笑、と苦労話として話したとしても、だからといってその選択をしなければ良かったという結論になるわけではなく、大変だったけど自分で選択したことで、自分のやりたいことだったから乗り越えられたということは沢山あるはず。大変だったけどそれでも幸せだと感じられることは沢山あると思います。

どのような選択肢であれ、得られるものがある一方で、それを選ばなかった場合に選べた可能性を捨てることになります。しかし選ばなかった場合の可能性に執着したら何一つ選び取ることが出来ないままただ時間だけが容赦なく過ぎていくだけ。それでさえも「何もしなかった」ということが結果的に自分が選んだ選択肢となり、それによってもたらされるものからは逃れることができません。

何事にも後悔や困難はある。自分の選択の結果をどう捉えるかは自分の考え方次第です。